王 丘(おう きゅう、生年不詳 - 743年)は、唐代官僚は仲山[1]本貫相州安陽県[2][3]

経歴

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太子左庶子の王同晊の子として生まれた。11歳のとき、童子挙に及第し、文章を作る能力で抜擢された。弱冠にして、さらに制挙に応じ、奉礼郎に任じられた。志と行いが清潔で、詞賦を得意としたことから、左庶子の王方慶御史大夫魏元忠に推薦された。長安年間、偃師県主簿から抜擢されて、監察御史に任じられた[4][1]

開元初年、王丘は官を重ねて考功員外郎となった。先立って考功による人士の選挙は請託が横行しており、及第者は毎年数百人に及んでいた。王丘が実際の能力によって選抜したため、及第者は100人に満たなくなった。王丘は三度官を異動して中書舎人となった。知制誥をつとめたまま、朝散大夫の位を加えられ、二度官を異動して吏部侍郎となった。選挙をつかさどること累年におよび、人事の公平なことで知られた。王丘の推挙により山陰県尉の孫逖桃林県尉の張鏡微・湖城県尉の張晋明・進士王冷然らが抜擢登用されたが、いずれも当時に優秀なことで知られた。まもなく王丘は尚書左丞に転任した[4][1]

開元11年(723年)、王丘は黄門侍郎に任じられた。この年、山東で旱害が起こり、朝臣から刺史を選抜して貧民を安撫することになると、王丘は懐州刺史として出向した。中書侍郎の崔沔ら数人も山東諸州の刺史となったが、みないずれも称すべき功績がなかった。ひとり王丘だけが在職して清廉で厳正であり、民衆や官吏たちもかれを畏敬し慕った。まもなくさらに王丘は吏部選事を分知し、入朝して尚書左丞となった。父が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、知制誥のまま右散騎常侍の位を受けた[5][1]

開元21年(733年)、侍中裴光庭が病没すると、中書令蕭嵩は王丘と旧知だったため、王丘を知政事に推薦しようとした。王丘はこれを知って固辞し、代わりに尚書右丞の韓休を推したので、蕭嵩も韓休を推薦する上奏をおこなった。韓休が宰相となると、王丘を崔琳に代わる御史大夫として推薦した。王丘は訥弁であったため、上奏の多くが玄宗の意にかなわなかった。まもなく太子賓客に転じ、父の宿預県男の爵位を嗣いだ。ほどなく病のため礼部尚書に任じられて、そのまま致仕を許された[6][1]

天宝2年(743年)、死去した。荊州大都督の位を追贈された。は文といった[6][7]

脚注

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  1. ^ a b c d e 新唐書 1975, p. 4481.
  2. ^ 旧唐書 1975, p. 4878.
  3. ^ 新唐書 1975, p. 5507.
  4. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3132.
  5. ^ 旧唐書 1975, pp. 3132–3133.
  6. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3133.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 4482.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6