玉水 弘(たまみず ひろし、1876年明治年9年)3月25日[1] - 没年不詳)は、日本技術者実業家関西ペイントの創業者。旧姓・花山[2]

経歴

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三重県員弁郡中上村(久米村中上[2]、東員村を経て現東員町中上)の花山家に生まれる[2]。のち兵庫県の玉水庄太郎の養子となる[1]

第三高等学校を経て[1]、1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業[1][2]。先発メーカーの日本ペイント東亜ペイントを経て独立。1917年(大正6年)に関西ペイント工業所を創業した[3]。研究施設や工場拡大のための資金調達に窮し、岩井勝次郎を紹介され1918年、岩井商店の援助により関西ペイントを設立する事となる[4]

援助の代償として経営権を岩井商店に譲渡。自分は取締役兼技師長に退いたが、豊潤な資金を元に、国産初となるラッカーの開発に成功。企業として発展のきっかけを作った。1930年(昭和5年)タイガー計算器取締役社長に就任した[1]

二男一女をもうけたが、2人の息子が若くして戦死したことにより、現在の関西ペイントの経営に玉水家は全く無縁である。

脚注

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  1. ^ a b c d e 『帝国大学出身名鑑』タ116頁。
  2. ^ a b c d 『員弁郡名鑑』90頁。
  3. ^ 関西ペイント[株とは]”. コトバンク. 2011年2月19日閲覧。
  4. ^ ~優れた技術力でグローバル市場に飛躍~”. 協豊会. 2011年2月19日閲覧。

参考文献

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  • 『員弁郡名鑑』員弁郡名鑑刊行会、1935年。
  • 校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1934年。