玉井潤次
玉井 潤次(たまい じゅんじ、1883年(明治16年)7月27日[1] - 1958年(昭和33年)12月27日[2])は、日本の弁護士、政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。
経歴
編集新潟県中蒲原郡早通村(現:新潟市)で、大地主・玉井貞太郎の二男として生まれた[3]。1910年東京帝国大学独法科卒[2][4]。卒業後は弁護士の業務に従事し、日本無産党に加わり[2]、新潟県議、新潟市議となる。その後、人民戦線事件で検挙される[1]。
戦後は日本社会党の結成に加わり、1946年の第22回衆議院議員総選挙で新潟県第1区(当時は大選挙区制)から立候補して当選する[5]。翌1947年の第1回新潟県知事選挙に日本社会党公認で立候補する。1回目の投票で1位の岡田正平に次ぐ得票となったが、法定得票数に達した者がいなかったため、岡田との決選投票となった。決選投票では岡田に30万票以上の差をつけられ敗れた。4年後の知事選にも出馬したが、6万票台と最下位に終わった。
脚注
編集参考文献
編集- 野島出版編集部編『新潟県県民百科事典』野島出版、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『20世紀人名事典』日外アソシエーツ、2004年。