猿ヶ京城(さるがきょうじょう)とは上野国にあった城である。永正年間に上杉顕定が築城したという。

1510年(永正7年)、長森原の戦いで顕定は長尾為景に討たれた。顕定の養子上杉憲房は猿ヶ京城に籠城しようとしたが、為景に加勢した長尾景春に敗北した。[1][2]

だが『加沢記』『沼田記』では1560年(永禄3年)三国峠を越え宮野城に入った長尾景虎が宿を取り、申年の自分が申年申の日に泊った事から「猿ヶ京」と改めたとの伝承もある[3]

1578年(天正6年)、上杉景勝上杉景虎の間で猿ヶ京城の戦いが起こり、景勝方が猿ヶ京城を守り抜いた。

1580年(天正8年)、沼田城から進軍した海野輝幸の軍勢が猿ヶ京城に攻め込み、守将の尻高左馬助は壮絶な討死をしたと伝えられている。[1][2]

1582年(天正10年)、武田勝頼を滅ぼした織田信長は上野に滝川一益を送り込んだ。猿ヶ京城に攻め込んだが、上杉軍に撃退されたと言われている。[1][2]

脚注

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  1. ^ a b c 『日本城郭大系』新人物往来社。 [要文献特定詳細情報]
  2. ^ a b c 山崎一『群馬の古城』あかぎ出版。 [要文献特定詳細情報]
  3. ^ 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編 3 (中世)、群馬県、1989年12月22日、577-578頁。doi:10.11501/9644421