遠祖は北魏の孝文帝の漢化政策で漢化した鮮卑であり、その後裔の李屯(独孤屯)の子として生まれた。隋の晋王楊広の側近として仕え、車騎将軍に累進した。楊広(煬帝)が即位すると、やはり側近にあって右屯衛将軍となった。
618年(大業14年)、宇文化及が江都で反乱を起こし、裴虔通が兵を率いて成象殿に入ると、独孤盛は裴虔通をとがめて痛罵した。よろいを着ないまま側近十数人とともに裴虔通をはばもうとして、反乱兵に殺害された。越王楊侗が帝を称すると、光禄大夫・紀国公の位を追贈された。諡は武節といった。
- 『隋書』巻71 列伝第36
- 『北史』巻73 列伝第61
- ^ 『陳書』世祖本紀および侯瑱列伝に、560年(陳の天嘉元年)に北周の水軍を率いて陳の巴州・湘州に侵入し、楊葉洲(西江口)で侯瑱に敗れた独孤盛なる人物が登場するが、本項で述べる独孤盛との関係は不詳。