狩野敏
狩野 敏(かの びん[1]、1901年(明治34年)4月1日 - 1981年(昭和56年)10月8日)は、日本の右翼活動家。元拓殖大学理事長。狩野を「かのう」と読むものもある。
人物・略歴
編集1919年(大正8年)、静岡県立静岡中学校卒業[2]。1920年(大正9年)、拓殖大学入学[1]。1922年(大正11年)10月、「魂の会」設立[1]。1924年(大正13年)3月、拓殖大学支那語科卒業[1]。同年、日本新聞入社[1]。1925年(大正14年)、静岡市でカフェー経営(〜1930年(昭和5年)4月)。1925年(大正14年)、静岡聖刃社結成[1]。
1930年(昭和5年)、大川周明の思想に共感し、行地社本部で専任事務、機関誌月刊「日本」の編集発行にあたり、その腹心的役割を果たす。[1]。1931年(昭和6年)、民間右翼の大同団結の動きに加わり、八幡博堂、鈴木善一、津久井竜雄らと共に、全日本愛国者共同闘争協議会(日協)を結成。同年3月、日協前衛隊長[1]。1932年(昭和7年)、大川周明が神武会を新たに結成、会頭となるのに伴い、全日本愛国者共同闘争協議会を解消。同年2月、神武会常任中執委員・総務部長。同年9月、同委員長(1935年(昭和10年)2月解散)[1]。
1934年(昭和9年)、満洲東亜経済調査局(〜1945年(昭和20年))[1]。1936年(昭和11年)、興中公司嘱託(〜1941年(昭和16年))[1]。1936年(昭和11年)以降、軍部との繋がりを強め、しばしば支那大陸に渡る。また橋本欣五郎の大日本青年党評議員となる。1939年(昭和14年)、満州炭鉱会社嘱託(〜1943年(昭和18年))[1]。1942年(昭和17年)6月、大政翼賛会興亜局連絡部副部長。1943年(昭和18年)5月、同興亜総本部事業部長。1944年(昭和19年)10月、同訓練部長[1]。同年、東京医療生活協同組合理事[1]。1945年(昭和20年)7月、大日本興亜会総指揮部長。
1948年(昭和23年)2月、公職追放[1]。戦後、右翼総結集の動きに加わると共に「大川周明全集」の刊行に取り組んだ。1952年(昭和27年)、拓殖大学理事(〜1954年(昭和29年))。1965年(昭和40年)4月、拓殖大学理事長(〜1967年(昭和42年)3月)[1]。