物部熊の名前が登場するのは、『日本書紀』巻第二十七の斉明天皇7年(661年)8月の項目のみである。
前将軍(まへのいくさのきみ)大花下(だいくゑげ)
阿曇比羅夫連(あづみ の ひらぶ の むらじ)、少花下(せうくゑげ)
河辺百枝臣(かはへ の ももえ の おみ)等(ら)、
後将軍(しりへのいくさのきみ)大花下
阿倍引田比羅夫臣(あへのひけたのひらぶのおみ)、大山上(だいせんじゃう)物部連熊(もののべ の むらじ くま)、大山上
守君大石(もり の きみ おほいは)等を遣(つかは)して、
百済(くだら)を救はしむ。仍(よ)りて兵仗(つはもの=武器)・五穀(いつのたなつもの)を送りたまふ。
[1]
さらに『書紀』巻第二十七によると、天智天皇2年(663年)3月に、
前将軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけの の きみ わかこ)、
間人連大蓋(はしひと の むらじ おほふた)、
中将軍(そひのいくさのきみ)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき の おみ をさ)・
三輪君根麻呂(みわ の きみ ねまろ)・
後将軍(しりへのいくさのきみ)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた の おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ の おみ かまつか)を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、
新羅(しらぎ)を打たしむ。
[2]
とあり、ここでは阿倍比羅夫を除いて、2年前の百済救援軍の将軍が一新されている。これは、661年の段階の本隊は派遣されずに、改めて編成され直したという説と、斉明7年の軍と天智2年の軍とでは、百済救援と直接新羅攻撃とで軍団の目的が異なっている、という説とがある。あるいは、先発隊と後発隊ということだったのではないか、と直木孝次郎は見ている。
以上のような事情で、白村江の戦いで、物部熊がどうなったのか、参加していたのか否かすら分かってはいない。
- ^ 『日本書紀』天智天皇即位前紀(斉明天皇7年)8月条
- ^ 『日本書紀』天智天皇2年3月条
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。