牧野成里

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本 (1556-1614)

牧野 成里(まきの しげさと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将旗本若江八人衆の一人。

 
牧野 成里
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治2年(1556年
死没 慶長19年4月20日1614年5月28日
改名 田三(幼名)、成里
別名 伝蔵(通称)、一楽斎
墓所 栃木県佐野市の龍江院
官位 伊予守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 滝川一益織田信雄長谷川秀一豊臣秀次石田三成池田輝政徳川家康秀忠
氏族 三河牧野氏
父母 牧野成継[1]
兄弟 成里正成拓植市兵衛室(養女)
成信成従成純 成常服部勘解由室、片桐善右衛門
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生涯

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弘治2年(1556年)、三河牧野氏の一系統である今橋牧野家(田蔵系)・牧野成継(田蔵)の子として誕生した。

はじめ滝川一益織田信雄に仕えたが、いずれも没落したため長谷川秀一の家臣となる。しかし秀一も文禄の役で陣没し、豊臣秀吉の命令で亡き主君の代理として長谷川軍を指揮した。その功績が評価され、帰国後は秀吉の甥・秀次の家臣となる。文禄4年(1595年)に秀次事件で秀次が切腹すると石田三成の家臣となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに参加したが、三成が敗北すると池田輝政の許に逃げ延びた。

慶長8年(1603年)、徳川家康より罪を許され、徳川家の旗本として迎えられ、下野国簗田に3000石の知行を与えられた。家康隠居後は秀忠に仕え、慶長11年(1606年)に御持筒頭に任じられた。

慶長19年(1614年)4月20日、死去。享年59。

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』第4輯(国民図書、1923年)、459-462頁。