瀬戸ヶ谷古墳
瀬戸ヶ谷古墳(せとがやこふん)は、かつて神奈川県横浜市保土ケ谷区瀬戸ケ谷町53付近に所在した古墳時代後期の古墳。形状は前方後円墳。神奈川県下における古墳時代後期(6世紀)の古墳としては最大級のものであった[1]。
座標: 北緯35度26分32.4秒 東経139度35分40.1秒 / 北緯35.442333度 東経139.594472度
立地と概要
編集帷子川の支流である今井川南岸、保土ケ谷駅南西の標高約40メートルの丘陵上に所在していた[2]。
太平洋戦争中の1943年(昭和18年)6月、地元住民の軽部三郎が、所有地の丘陵頂部を開墾中に土器片を発見し、横浜市市民博物館館長の中道等に連絡した。中道の調査により土器片が人物埴輪片であることが確認され、また軽部は埴輪が発見された土地の形状が前方後円墳形に見えることから、開墾を中止して神奈川県に「古墳発見届」を提出した。同年に帝室博物館(後の東京国立博物館)の神林淳雄と、神奈川県史跡調査委員の赤星直忠が部分的な調査を実施したが、戦時中のため本格的な発掘調査は行われなかった[3]。
発掘調査
編集本発掘調査は、終戦後の1950年(昭和25年)1月から2月[注釈 1]にかけて実施され、東京国立博物館から八幡一郎・三木文雄・増田精一・村井嵩雄が、神奈川県から赤星直忠・石野瑛(考古学研究者、武相中学校・高等学校創立者)が参加した[1]。調査の結果、古墳は全長41メートル×幅20メートル×高さ4メートルの前方後円墳であることが確認された。埋葬施設は既に盗掘され検出できなかったが、墳丘周囲を3重に巡る円筒埴輪・朝顔形埴輪列が検出された。また、後円部上および前方部西側を中心に人物埴輪のほか馬形・家形・大刀形・盾形・靫形・帽子形などの形象埴輪が出土した。埴輪の特徴から6世紀中頃に築造されたとみられ、帷子川流域を支配しヤマト王権とも結びつきの強かった首長の墓と推定された[2]。
出土した数多くの埴輪は東京国立博物館に所蔵されているが[6][7]、墳丘自体はその後破壊され、赤星直忠が1969年(昭和44年)から1979年(昭和54年)までの期間に作成したと推定される赤星ノート(資料01087)には、墳丘が削平され住宅地となった現状を撮影した写真(撮影年月日不明)が残されている[1]。
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帽子形埴輪
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盾形埴輪
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靫形埴輪
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 古墳時代研究プロジェクトチーム 2007, pp. 49–60.
- ^ a b c 横浜市歴史博物館 2001, p. 42.
- ^ 百瀬 2008, p. 11.
- ^ 横浜市教育委員会事務局生涯学習部文化財課 2004, p. 112-113.
- ^ 神奈川県企画調査部県史編集室 1979.
- ^ 東京国立博物館. “ColBase:国立文化財機構所蔵品統合検索システム”. 東京国立博物館. 2023年6月13日閲覧。
- ^ 東京国立博物館. “形象埴輪の展開”. 東京国立博物館. 2023年6月13日閲覧。
参考文献
編集- 神奈川県企画調査部県史編集室『神奈川県史(資料編20 考古資料)』神奈川県、1979年。 NCID BN04387495。
- 横浜市歴史博物館「瀬戸ヶ谷古墳」『横浜の古墳と副葬品』横浜市ふるさと歴史財団、2001年1月27日、42頁。 NCID BA52381705。
- 横浜市教育委員会事務局生涯学習部文化財課「保土ヶ谷区6」『横浜市文化財地図』横浜市教育委員会、2004年3月31日、112-113頁。 NCID BB23262051。
- 古墳時代研究プロジェクトチーム 著「考古学の先駆者 赤星直忠博士の軌跡(4)-通称「赤星ノート」の古墳時代資料の紹介-」、財団法人かながわ考古学財団 編『かながわの考古学』財団法人かながわ考古学財団〈研究紀要12〉、2007年12月25日、49-60頁 。
- 百瀬, 敏夫「写真でみる昭和の横浜②-瀬戸ヶ谷古墳の発見-」『市史通信』第3号、横浜市史資料室、2008年11月22日、11頁。
外部リンク
編集画像外部リンク | |
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横浜市行政地図情報提供システム「文化財ハマSite」 |