瀬古安太郎
瀬古 安太郎(せこ やすたろう、 1836年 - 1923年)は、日本の写真師[1]。濃尾地震の被害状況を記録した写真を残したことで知られる。
来歴
編集1836年、 瀬古弥左衛門の次男として、美濃国武儀郡上之保村[要検証 ](現在の岐阜県関市)に生まれた。小島柳蛙に師事して写真術を学んだ。[要出典]1875年に岐阜に「瀬古写真館」を開く[2]。
1891年10月にマグニチュード8.0の濃尾地震が発生すると、弟子を連れて、岐阜・高富・大垣・羽島・笠松に至る一円を様子を記録に収め[2][3]、濃尾地震の地震断層である根尾谷断層も撮影した[4][注釈 1]。
1923年に死去したが、同年に瀬古真二が二代・瀬古安太郎を襲名した[要出典]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ “瀬古 安太郎”. 【幕末明治の写真師 総覧】1,000名以上の写真師データベースから人名・開業年・出身地などを検索. 2021年7月17日閲覧。
- ^ a b “歴史的大規模土砂災害地点を歩く”. いさぼうネット. 2021年7月17日閲覧。
- ^ “七灘の写真”. 濃尾地震と根尾谷断層. 岐阜大学教育学部地学科. 2021年7月17日閲覧。
- ^ a b “水鳥断層崖の写真”. 濃尾地震と根尾谷断層. 岐阜大学教育学部地学科. 2021年7月18日閲覧。
- ^ a b 榎本祐嗣「小藤論文の濃尾地震根尾谷断層写真について」(PDF)『歴史地震』第21号、歴史地震研究会、2006年、219-222頁、2021年7月18日閲覧。