澤村田之助 (6代目)

日本の歌舞伎役者 (1932-2022)

六代目 澤村 田之助(さわむら たのすけ、新字体:沢村1932年昭和7年〉8月4日[1] - 2022年令和4年〉6月23日)は、歌舞伎役者。屋号紀伊國屋定紋釻菊、替紋は波に千鳥舞踊の名取名は藤間 勘之(ふじま かんじ)。本名は山中 宗雄(やまなか むねお)[1]重要無形文化財保持者(人間国宝[1]

ろくだいめ さわむら たのすけ
六代目 澤村 田之助
屋号 紀伊國屋
定紋 釻菊
生年月日 1932年8月4日
没年月日 (2022-06-23) 2022年6月23日(89歳没)
本名 山中 宗雄[1]
襲名歴 1. 四代目澤村由次郎
2. 六代目澤村田之助[1]
別名 藤間勘之(舞踊名)
出身地 東京
五代目澤村田之助
兄弟 二代目澤村六郎
五代目澤村由次郎
当たり役
仮名手本忠臣蔵』の小浪
神霊矢口渡』のお舟
築山殿始末』の築山殿

人物

編集

父は五代目澤村田之助第二次世界大戦中に一家で静岡県田方郡伊東町(現:伊東市)に疎開していたため、静岡県立伊東高等学校に通った(後に中退[1])。

七代目澤村宗十郎の芸を受け継ぐ女形として活躍したほか、1984年から国立劇場歌舞伎俳優養成の講師を務め[2]2003年から2013年1月までは横綱審議委員会の委員を務めた。

2022年6月23日肺炎のため東京都内の病院で死去[3]。89歳没。死没日をもって従五位に叙された[4]

年譜

編集

好角家としての一面

編集

六代目田之助は幼少の時に六代目尾上菊五郎国技館(戦前の旧両国国技館)へ連れられ、初めて相撲を観戦した。その日は横綱・双葉山定次安藝ノ海節男に敗れて70連勝ならずという歴史的な日(1939年1月場所4日目)であったことをのちに語っている[7]

長じてからも本業の歌舞伎の舞台の合間に国技館へ通うなど好角家として知られるようになり、2003年日本相撲協会からの委嘱を受けて横綱審議委員会委員に就任。相撲への愛情から角界に対して数々の提言・苦言を呈するなどしている[8]。在任中は度々北の湖理事長に対して本場所を年4回に減らして力士の負担を軽減するように提案していた[9]

2010年朝青龍が不祥事の責任を取って引退した直後にハワイを訪れ、その後にモンゴルで会見を開いて相撲協会への不満を表明した際には「実に傍若無人でとても不愉快に感じた。お客さんもそう思ったから、大阪場所も彼がいなくてもにぎわったんじゃないですか」と不満を爆発させ、引退相撲が計画されていることについても「横審が協会に中止を要請することはないですが、私は反対です」と話した[10]

著書

編集

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f 読売年鑑2013』P.587(読売新聞東京本社,2013年3月27日刊行)
  2. ^ INC, SANKEI DIGITAL. “後継者を何が何でも育てる 平成の名人、歌舞伎俳優・澤村田之助(83)”. 産経ニュース(2016年1月31日). 2020年10月31日閲覧。
  3. ^ 澤村田之助さん死去 89歳 歌舞伎俳優で人間国宝 - NHK NEWS WEB 2022年6月25日
  4. ^ 『官報』第78710号PP頁 令和4年8月1日
  5. ^ 沢村田之助氏、横審委員に 歌舞伎の人間国宝 共同通信 2003年7月13日閲覧
  6. ^ 「頑張らないで、一所懸命…」倍賞千恵子に旭日小綬章”. スポーツニッポン (2013年4月29日). 2023年2月7日閲覧。
  7. ^ 『大相撲』2010年7月号(読売新聞社)インタビュー参照
  8. ^ 横審・沢村委員が提言「NHKは中継すべき」 スポーツニッポン 2011年3月28日閲覧
  9. ^ 「国技なんて言えない」 歌舞伎役者・沢村田之助氏(82) (2/3ページ) 産経ニュース 2015.1.2 21:24更新
  10. ^ 朝青龍の引退相撲、横審は「反対です」 - ウェイバックマシン(2010年4月5日アーカイブ分)

外部リンク

編集