滝の城

埼玉県所沢市にあった城

滝の城(たきのじょう)は、埼玉県所沢市にあった日本の城。同市の東端で隣接する東京都清瀬市との都県境、柳瀬川の北岸に位置し、豊かな緑に覆われた断崖の上に 曲輪空掘り跡などが残っている。 今日では本丸跡に「城山神社」が祀られ、その南側を中心に滝の城址公園(たきのじょうしこうえん)として整備され、の木や運動施設などが揃う公園となっている。

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滝の城
埼玉県
滝之城本丸跡
滝之城本丸跡
別名 本郷城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 不詳
築城年 平安時代末頃か
主な城主 大石氏北条氏照の家臣か
廃城年 天正18年(1590年)か
遺構 土塁、空堀(含障子堀[1])、土橋、郭、外郭線[2]
指定文化財 埼玉県指定史跡
位置 北緯35度48分1.14秒 東経139度31分55.43秒 / 北緯35.8003167度 東経139.5320639度 / 35.8003167; 139.5320639
地図
滝の城の位置(埼玉県内)
滝の城
滝の城
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城山神社

本丸跡の城山神社
所在地 滝の城 本丸跡
主祭神 愛宕神社, 稲荷神社2社, 熊野神社, 天神社, 八幡神社 を合祀
創建 ?
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概要

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滝の城(滝之城, 瀧之城)は 別称「本郷城[注釈 1]」とも呼ばれ、1925年(大正14年)に埼玉県指定史跡に指定されている。

その原型は、伝承によると1180年治承4年)頃に 源頼朝の挙兵に応じて土豪が築城したものと言われているが、記録などは残っておらず詳細は不明である。また、後述の横穴墓群の出土により、この場所は城としての成立以前の古代においても何らかの重要な拠点として使用されてきたものと推測される。

戦国時代には、関東管領上杉氏の家臣で武蔵国守護代 大石氏(後に八王子城)の支城として対岸の清戸番所との関係もあったとされる。その後大石定久の代に後北条氏の支配下となり北条氏照の支城になった。 氏照は本拠の滝山から北関東に度々出陣しており、その直線上にあたる滝の城は軍勢集結の拠点になった。1564年(永禄7年)の北条氏による下野への遠征の際にはこの城で陣揃(じんぞろえ)が行われたことが記録されている。

その後1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原征伐の際に、浅野長政率いる豊臣方に城北側の大手方面から急襲され八王子城と共に落城[注釈 2][注釈 3]徳川家康の関東入国の領内整備の頃には廃城となったと推測されている。

滝の城にある七曲坂には、木肌に傷をつけると赤色の樹液が出ると伝えられる大きな黒松があり「血の出る松」と呼ばれていた[注釈 4]。1972年(昭和47年)に枯れてたため伐採され、跡地には記念に「血の出る松の跡」碑が残っている。

構造

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その構造は多郭式平山城で、面積約6万6,000 [注釈 5]本丸跡を中心に二の丸三の丸などの曲輪物見櫓、複雑に張り巡らされた空堀などの跡がよく残っており、大手は本丸の更に北方に、また北西に搦め手があったとされる。北東方向の台地続きには外郭線を有している[4]

  • 1986年(昭和61年)の発掘調査では三の丸跡などから障子堀跡も発見されている[1]
  • 本丸北端西側の土塁の切れ目で、格式の高い門である四脚門が検出されている。白い玉石も敷いてあった。この位置から空堀を越えて「馬出」と呼ばれるまで橋が架かっていたと推定される。

名称の由来

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郭の東側、出郭と城外を画す小谷に、かつて「金津の滝」というがあり、現在では痕跡が残るのみですが、この滝が城の名の由来とされる。

今日では斜面の岩場に僅かな流れが残るのみで[5]、この小流が南に流れ込み公園の池を形成している。

考古資料

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横穴墓群

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  • 1976年(昭和51年)の崖崩落防止の補強工事の際に本丸跡の崖付近から横穴墓群が発見された。出土した須恵器から古墳時代後期7世紀頃の物と推定されている。
    • 経緯[6] : 前年の1974年(昭和49年)の秋に降った集中豪雨により本郭南東部の崖が一部崩壊し、その後も浸食が進み崖崩れの危険性があったため、(埼玉県の昭和50年度の助成事業として)補強工事が行われた。 が、掘削を始めた1976年(昭和51年)2月13日、人骨の一部が発見された。 工事は一旦中止し発掘調査したところ、全9基の横穴墓群が確認され、 金環(古代のイヤリング)、ガラス小玉、と前述の須恵器 などが出土した。 調査はその後2月24日~3月9日まで行われ、調査後この場所は埋め戻されている。 墓群の玄室は極めて規則性のある配置で当工事に該当しなかった東西方向にもまだ相当数が連続していると見られている。
 
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復元模型

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滝の城址公園

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滝の城址公園
分類 総合
所在地
設備・遊具 野球場, テニスコート, 池 ほか
駐車場 50台 (東:30台+西:20台)
告示 1972年昭和47年)開園
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1972年(昭和47年)に滝之城跡の一部、南側の水田跡などを中心に整備され開設された総合公園。敷地の北、東端は関越自動車道に隣接し、南東側に柳瀬川が流れ、JR武蔵野線の高架線路がその南端を横断する。園内には野球場テニスコートなどの施設があり、遊歩道が整備されている。断崖の上の本丸跡からは対岸の清瀬市付近が展望できる。

  • 自生するカタクリニリンソウヤマユリなどの花が咲き、春にはの名所としても親しまれている。
  • 北側の敷地は場所によっては昼間でも薄暗い鬱蒼と繁る木々覆われており、整備された遊歩道以外の区域は、かつては「まむしにちゅうい」の立札が立てられたほど豊かな生態系が保たれている。
  • 園内東側にあるでは、釣りを楽しむ人が多く、子供たちは小魚やアメリカザリガニなどを捕まえたりしている。

施設

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駐車場は南西・北東端に2ヶ所。

交通アクセス

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自動車
関越自動車道所沢インターチェンジから(さいたま方面出口~坂の下交差点右折~城公民館前信号左折)約5分。
電車・バス

脚注

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注釈

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  1. ^ 本郷城 …この周辺地域の名称は、現在では(所沢市)大字城大字本郷 に分かれているが、旧名は「城本郷」で、城名は『小田原編年録』などには「本郷城」と記されている。
  2. ^ 落城 …『新編武蔵国風土記稿』に記述あり[3]
  3. ^ 近年の発掘調査では二ヶ所の城門跡から炭化した木材が検出され、戦闘による落城が考古学的にも明らかにされている。
  4. ^ 落城したときに討死した城兵の血が 地に染み込んだためと言われていた
  5. ^ 総面積については、現地の説明板では約6万6000㎡、『所沢市史 文化財編』では8万7,400㎡となっている。

出典

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  1. ^ a b 小笠原 2016.
  2. ^ 西股 2013.
  3. ^ 新編武蔵風土記稿 城村.
  4. ^ 西股 2003.
  5. ^ 名の由来 …滝の写真File:Waterfall Castle Creek Waterfall.jpg 参照
  6. ^ 経緯 …この部分は、現地にある案内板と 『滝之城横穴墓群』の記述を参考(共に所沢市教育委員会による)
  7. ^ CATV便り 所沢市「滝の城 復元模型」 - こんにちは いっと6けん(NHK総合)2009年2月12日(木)11:05~11:54放送

参考文献

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  • 「城村 北條氏城蹟」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ157入間郡ノ2、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764001/56 
  • 『滝之城横穴墓群 -所沢市文化財調査報告書 第2集』 (1978年3月) 所沢市教育委員会 35p. 26cm 図版17,折込図2枚
  • 所沢市 著「滝の城跡」、所沢市 編『所沢市史 文化財・植物』所沢市、1985年、31-34頁。 
#考古資料も参照
  • 西股「城の外にひろがるもの」『中世城郭研究』第17号、中世城郭研究会、2003年、19-20頁、ISSN 0914-3203。「埼玉県所沢市の滝ノ城も、長大な外郭線を有している。(中略)想定される敵主攻正面は北東方であり、そうした軍事的状況に対応するように外郭線が設定されている。この外郭線には数カ所に横矢の折れがあり、東面には横矢に援護された馬出も備えたらしい。(中略)技巧を駆使しているのは、広大な台地続きに対して防御線が長くならざるをえないことへの対処、と理解できる。」  - 『「惣構」の再検討』[第19回全国城郭研究者セミナー(2002年8月4日開催、中世城郭研究会主催)]における同氏の報告「遮断線構造からみた中世城郭の外帯部施設」を論考化したもの。
  • 小笠原「「障子堀」甦って43年:北条技法と多様な様態事例 附 「堀障子関連略年表 2015」」『中世城郭研究』第30号〈特集・「障子堀」の新展開〉、中世城郭研究会、2016年、267頁、ISSN 0914-32032020年5月8日閲覧。「1986 昭和61 小田原支城滝の城(埼玉県所沢市)で障子堀を確認」  - 『「障子堀」の新展開』[第32回 全国城郭研究者セミナー(2015年8月2日開催、中世城郭研究会主催)]における同氏の報告を活字化したうえで、障子堀の確認事例を編年化した表を附したもの。

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯35度48分01秒 東経139度31分55秒 / 北緯35.800317度 東経139.532064度 / 35.800317; 139.532064