源泰光
鎌倉時代初期から中期の公卿・歌人。村上源氏俊房流。源師光の長男。従三位・非参議
源 泰光(みなもと の やすみつ)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿・歌人。村上源氏俊房流、右京権大夫・源師光の長男。官位は従三位・加賀守。
時代 | 鎌倉時代初期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 仁安2年(1167年) |
死没 | 不詳 |
改名 | 俊信→泰光 |
官位 | 従三位、加賀守 |
主君 | 後白河上皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 村上源氏俊房流 |
父母 |
父:師光 母:後白河院女房安芸(巨勢宗成の娘)[1] |
兄弟 | 泰光、具親、後鳥羽院宮内卿、尋恵、澄覚 |
子 | 源俊平 |
経歴
編集従五位下に叙爵後、後白河院政期後期の文治3年(1187年)兵部権少輔に任ぜられ、建久2年(1191年)従五位上に叙せられる。
後鳥羽院政期に入ると建久5年(1194年)正月に紀伊介を兼ねるが、同年4月に兵部権少輔を辞す代わりに正五位下に昇叙された。紀伊介の任期満了後は散位になったと見られるが、建仁3年(1203年)前権大納言・藤原泰通の知行国である加賀守に任ぜられる。泰通の母は源師頼の娘であるため泰光にとっては叔母にあたり、泰通の取りなしで加賀守に任ぜられた可能性がある。また泰光と泰通の通字が同じく「泰」なのは、偶然の一致ではないと考えられる。
承久3年(1221年)承久の乱終結後の12月に27年振りに昇叙されて従四位下に昇進する。その後も昇進は遅滞し、嘉禎2年(1237年)今度は16年ぶりの昇叙で従四位上となるなど、村上源氏の嫡流格ながら、他の源師頼の子孫らと同様、長らく官途は不遇であった。
後嵯峨院政期に入ると、宝治2年(1248年)従三位に叙せられ、82歳という極めて高齢ながら公卿に列す。これは、後嵯峨院による村上源氏取立て策の一環によるものと考えられる。翌建長元年(1249年)出家。
人物
編集官歴
編集『公卿補任』による。
系譜
編集- 父:源師光
- 母:後白河院女房安芸 - 巨勢宗成の娘
- 妻:不詳
- 男子:源俊平