源扶義

平安時代中期の公卿。源雅信の四男。正四位下・参議。子に延尋、上東門院小少将(-1013)

源 扶義(みなもと の すけのり)は、平安時代中期の公卿宇多源氏左大臣源雅信の四男。官位正四位下参議。字は源叔

 
源扶義
時代 平安時代中期
生誕 天暦5年(951年
死没 長徳4年7月25日998年8月19日
別名 字:源叔
官位 正四位下参議
主君 円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源雅信、母:藤原元方の娘
兄弟 時中扶義済信倫子時通時叙時方、中の君、通義済時致平親王妃、藤原定時
源是輔の娘
成頼経頼藤原兼隆正室、延尋簾子上東門院小少将
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経歴

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一般の上流貴族子弟の昇進過程とは異なり、学問を志して大学寮に入り、25歳であった天延3年(975年)に文章生となる。貞元2年(977年)8月に進士蔵人として六位蔵人に補され、同年12月図書助に任ぜられる。式部少丞を経て、天元3年(980年従五位下遠江権守に叙任される。

天元4年12月(982年1月)に円融天皇昇殿を許される。天元5年(982年安芸権守、翌年には河内守と地方官を経て、永観2年(984年)従五位上、寛和2年(986年正五位下と昇進。同年6月に寛和の変により一条天皇が即位すると再び昇殿を許され、翌永延元年(987年五位蔵人右少弁に任ぜられ一条天皇の身近に仕える。

その後も弁官を務めながら順調に昇進し、正暦2年(991年)には従四位上蔵人頭頭弁)に叙任される。また、正暦4年(993年)には敦道親王元服に際して、同じく頭弁の源俊賢と共に秉燭を務めた[1]。正暦5年(994年参議右大弁に任ぜられ公卿に列し、一条天皇の九卿の一人と呼ばれるようになる。

議政官として、長徳2年(996年)左大弁、長徳3年(997年)には大蔵卿を兼帯するが、長徳4年(998年)7月25日に卒去。享年48。死の10日前には仁王会に参じている[2]。なお、没後の寛弘7年(1010年)10月15日に扶義の邸宅が焼失している[3]

官歴

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※注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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近江源氏佐々木氏は成頼の子孫を称した。

脚注

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  1. ^ 権記正暦4年2月22日条
  2. ^ 『権記』長徳4年7月10日条
  3. ^ 御堂関白記寛弘7年10月15日条
  4. ^ ユリウス暦では978年1月25日
  5. ^ ユリウス暦では982年1月11日
  6. ^ 小右記
  7. ^ ユリウス暦では993年1月2日
  8. ^ 母を藤原行成の娘とする系図もある(「亀井家譜、佐々木富士名判官履歴及世系」(中田憲信『好古類纂』所収))
  9. ^ 扶義が舅源是輔から伝領した冷泉邸は兼隆の正妻に伝えられている(『日本紀略』長元2年正月2日条)
  10. ^ 一説では源時通の娘。
  11. ^ 『紫式部集』