源惟正
平安時代中期の公卿。源相職の三男。源相職の三男
源 惟正(みなもと の これただ)は、平安時代中期の公卿。文徳源氏、右大弁[注釈 1]・源相職の三男。官位は従三位・参議。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延長7年(929年) |
死没 | 天元3年4月29日(980年6月14日) |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 文徳源氏 |
父母 | 父:源相職、母:源当平の娘 |
兄弟 | 惟正、惟繇、惟長、惟光 |
妻 | 藤原守文の娘、藤原国章の娘 |
子 | 遠古、遠節、遠理、兼宣、惟明、兼業、兼資、兼相、藤原実資室 |
経歴
編集朱雀朝末の天慶9年(946年)左兵衛権少尉に任ぜられると、村上朝前半にかけて約10年に亘って左兵衛尉を務め、この間の天暦4年(950年)春宮・憲平親王が立坊すると東宮蔵人に、天暦9年(955年)には村上天皇の六位蔵人に補せられている。
天暦10年(956年)従五位下・備中介に叙任されると、のち信濃守・播磨介と村上朝後半は地方官を務め、この間の天徳5年(961年)治国の功労により従五位上に叙せられている。
康保4年(967年)東宮蔵人として仕えていた憲平親王が即位(冷泉天皇)すると、新春宮・守平親王の春宮大進に任ぜられて京官に復帰し、安和元年(968年)正五位下に昇進する。今度は安和2年(969年)に守平親王が即位(円融天皇)すると、春宮大進の功労により従四位下、天禄元年(970年)従四位上・左近衛中将兼蔵人頭と、冷泉朝から円融朝にかけて急速に昇進を果たし、天延2年(974年)正四位下・参議に叙任され公卿に列した。貞元2年(977年)従三位。
天元2年(979年)正月に子息・遠古の伊予介任官申請のために参議辞任を上表するが。3月に勅により参議に復した。天元3年(980年)4月29日薨去。享年52。最終官位は参議従三位行修理大夫兼大和権守。
官歴
編集『公卿補任』による。
- 天慶8年(945年) 4月18日:昇殿
- 天慶9年(946年) 3月7日:左兵衛権少尉(殿上労)
- 天暦元年(947年) 10月23日:左兵衛権大尉
- 天暦4年(950年) 7月:東宮蔵人(春宮・憲平親王)
- 天暦7年(953年) 正月29日:左兵衛権少尉
- 天暦9年(955年) 2月27日:六位蔵人。10月7日:左兵衛権大尉
- 天暦10年(956年) 正月7日:従五位下(外衛労、蔵人)。9月8日:備中介
- 天徳5年(961年) 正月7日:従五位上(備中労)。正月25日:信濃守
- 康保3年(966年) 正月27日:播磨介
- 康保4年(967年) 9月1日:春宮大進(春宮・守平親王)。11月2日:昇殿
- 安和元年(968年) 11月27日:正五位下(大嘗会主基)
- 安和2年(969年) 8月13日:昇殿(踐祚初)。9月23日:従四位下(先坊大進)。9月27日:昇殿。11月11日:春宮亮(春宮・師貞親王)、播磨介如元
- 天禄元年(970年) 8月6日:蔵人頭。9月20日:右近衛中将、春宮亮如元。11月20日:従四位上(播磨介功)
- 天禄2年(971年) 3月20日:近江権守
- 天禄3年(972年) 2月29日:修理大夫
- 天禄4年(973年) 7月26日:辞修理大夫(子息惟章申任右兵衛佐)
- 天延2年(974年) 2月7日:参議。4月7日:止春宮亮。11月28日:正四位下(朔旦)
- 天延3年(975年) 正月26日:備前守
- 天延4年(976年) 正月26日:辞備前守
- 貞元2年(977年) 8月2日:従三位(造宮功)
- 貞元3年(978年) 2月3日:大和権守
- 天元2年(979年) 正月26日:上表辞参議(子息遠古申任伊予介)。3月4日:勅復参議、兼官如元
- 天元3年(980年) 4月29日:薨去(参議従三位行修理大夫兼大和権守)
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『小右記』寛和2年5月8日条
参考文献
編集- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年