湯浅五助
?-1600, 戦国時代の武将
湯浅 五助(ゆあさ ごすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大谷吉継の家臣。諱は隆貞(たかさだ)とされる。
太平記英勇伝九十四:湯浅吾助(落合芳幾) | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 生年不詳 |
死没 | 慶長5年9月15日(1600年10月21日) |
別名 | 隆貞、通称:五助 |
墓所 | 関ケ原町 |
主君 | 大谷吉継 |
生涯
編集生年や素性などは不明[注釈 1]。大谷吉継の長臣(重臣)であったと言う。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた。この際、ライ病(ハンセン病)を患っていた吉継は、自害する前に五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」[注釈 2]と言い遺して果てた。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。
藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っていたはずだと、高刑を詰問した。しかし高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わず、自分を処罰するように求めた。その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという[1]。
墓は、岐阜県関ケ原町に存在する。合戦後まもなく藤堂家によって建立された大谷吉継の墓の隣に、大正5年(1916年)、五助の子孫により建立されたものである[2]。
登場する作品
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『平尾氏箚記』
- ^ 史跡関ケ原古戦場保存管理計画策定報告書-第2章44頁
参考文献
編集- 参謀本部 編「国立国会図書館デジタルコレクション 藤堂仁右衛門湯浅五助ノ約ヲ変セス」『日本戦史. 関原役』元真社、1893年 。