渡辺渡 (陸軍軍人)
渡辺 渡(わたなべ わたる、1896年(明治29年)12月26日[1][2] - 1969年(昭和44年)12月7日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
渡辺 渡 | |
---|---|
生誕 |
1896年(明治29年)12月26日 日本 岡山県 |
死没 | 1969年(昭和44年)12月7日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1918 - 1946 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集岡山県出身[1][3]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる[1][4]。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し、歩兵第12連隊中隊長に就任[1][3]。
1929年(昭和4年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第2師団参謀、混成第24旅団参謀、参謀本部付(支那駐在員、北京・張家口・九江)などを経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1934年(昭和9年)3月、第9師団参謀に就任し、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)に転じ、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に進級[1]。
1937年10月、北支那方面軍特務部付となり、北京特務機関長、済南特務機関長を歴任し、1939年(昭和14年)3月、歩兵大佐に昇進し興亜院華北連絡部政務局長に就任[1][3]。1940年(昭和15年)9月、参謀本部付として総力戦研究所員となった[1][3]。
1941年(昭和16年)11月、第25軍軍政部付に発令され太平洋戦争を迎えた[1][2][3]。マレー作戦、シンガポールの戦いに参加[2]。1942年(昭和17年)4月、第25軍参謀副長兼軍政部長となり、同軍軍政監部総務部長兼参謀副長を経て、1943年(昭和18年)3月、陸軍少将に進み陸軍歩兵学校付となる[1][2][3]。同年5月、企画院第1部長に就任[1][2][3]。軍需省総動員局監理部長を経て、1944年(昭和19年)11月、独立混成第2旅団長に転じ張家口に駐屯[1][2][3]。北支那方面軍参謀副長として終戦を迎え[2][3]、その後、同方面軍渉外部長に就任[1]。1946年(昭和21年)8月に復員[1]。