渡辺正夫
渡辺 正夫(わたなべ まさお、1888年(明治21年)10月10日[1][2] - 1950年(昭和25年)10月11日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
渡辺 正夫 | |
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生誕 |
1888年(明治21年)10月10日 日本 大阪府 |
死没 | 1950年(昭和25年)10月11日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1909年(明治42年) - 1945年(昭和20年) |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集旧岸和田藩士、小学校長・渡辺源太の二男として生まれる[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、同年12月、砲兵少尉に任官し、野戦砲兵第4連隊付となる[1][3]。陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業[1][4]。
参謀本部付勤務、参謀本部員、陸軍野戦砲兵学校教官、広島湾要塞参謀、豊予要塞参謀、近衛野砲兵連隊大隊長、野戦砲兵学校教官、野砲兵第10連隊長、第14師団参謀長などを経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級[1][4]。
中部防衛参謀長、陸軍造兵廠総務部長、陸軍兵器本廠長などを歴任し、1939年(昭和14年)10月、陸軍中将となった[1][2][4]。陸軍航空技術研究所付を経て、1940年(昭和15年)8月、新編された第56師団長に親補された[1][2][4]。ビルマの戦いに従軍し[2]侵攻作戦とビルマルート(援蒋ルート)遮断に成功した[要出典]。1942年(昭和17年)12月、陸軍科学学校長に就任[1][4]。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)3月、沖縄の第32軍初代司令官として沖縄の航空基地設営を行った(牛島満の前任者)[1][2][4]。同年8月、心労のため、また過度に沖縄県民の不安を煽ったことで[要出典]、参謀本部付となり、10月に予備役編入となったが、1945年(昭和20年)4月に召集され、大阪師管区司令官に就任し[2][4]、同年12月に召集解除となった[1]。
栄典
編集- 位階
- 1910年(明治43年)2月21日 - 正八位[6]
- 1913年(大正2年)4月21日 - 従七位[7]
- 1918年(大正7年)5月20日 - 正七位[8]
- 1923年(大正12年)7月31日 - 従六位[9]
- 1928年(昭和3年)9月1日 - 正六位[10]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[11]
- 勲章
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、174頁。
- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』813頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』259、263頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』263頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」190頁。
- ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
- ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
- ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
- ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
- ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
- ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第5730号「叙任及辞令」1946年2月21日。