渡辺教忠

日本の戦国時代の武将。土佐一条氏一門東小路教行次男で、伊予西園寺氏重臣渡辺政忠養子。西園寺十五将筆頭・伊予河後森城主を勤めた

渡辺 教忠(わたなべ のりただ)は、戦国時代武将伊予西園寺氏の家臣。伊予国河後森城主。西園寺十五将の1人。

 
渡辺 教忠
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 東小路教忠、川原淵殿
官位 式部少輔
主君 西園寺公広
氏族 土佐一条氏(東小路氏)
父母 父:東小路教行(一条教行)
養父:渡辺政忠
兄弟 男子、教忠
養子あり
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生涯

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土佐一条氏当主・一条房家の子である東小路教行(一条教行)の次男。土居清良と共に幼少期を送った。一条兼定の伊予進出の布石として、西園寺氏の重臣・渡辺政忠の養嗣子となる。西園寺十五将の筆頭として1万6500石を領した。

一条氏が南伊予に侵攻した際、西園寺氏の出兵命令を断り日和見を決め込んだため、永禄10年(1567年)に主君・西園寺公広に攻められ、養子を人質に差し出し降伏した。一条氏の土佐国追放後は長宗我部氏に敢闘し、河後森の若城主と呼ばれ評判になるが、度重なる戦乱により家臣の分裂を生む。

天正8年(1580年)から翌9年(1581年)の間に、長宗我部氏に寝返った近習・芝政景(源三郎、一覚)の謀略により月見の夜に居城から追放された。暗殺されたとも、帰農したともいわれる。

関連文書

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  • 「河後森城史」旧松野町教育委員会