渡辺一衛 (野球)
渡辺 一衛(わたなべ かずえ、1924年9月9日 - 没年不明)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のプロ野球選手(ポジションは一塁手,外野手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 新潟県高田市(現・上越市) |
生年月日 | 1924年9月9日 |
身長 体重 |
174 cm 66 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手、外野手 |
プロ入り | 1948年 |
初出場 | 1948年4月18日[1] |
最終出場 | 1951年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
編集高田中学(新潟県立高田高等学校)から大連満洲倶楽部を経て、1948年に金星スターズに入団。新潟県出身者として初のプロ野球選手でもあった[注釈 1]。現役時代は、代打や守備固めに終始したが、1950年5月14日に後楽園球場で行われた西鉄戦では、山口富雄の代打として出場し、ライトに上げたフライを西鉄のライト・木暮力三が落球して、サヨナラ満塁エラーの立役者となっている[3]。1951年限りで引退した。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1948 | 金星 大映 |
38 | 71 | 70 | 2 | 15 | 3 | 0 | 0 | 18 | 3 | 0 | 1 | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 12 | -- | .214 | .225 | .257 | .482 |
1949 | 38 | 45 | 43 | 5 | 7 | 1 | 0 | 1 | 11 | 6 | 0 | 0 | 0 | -- | 2 | -- | 0 | 10 | -- | .163 | .200 | .256 | .456 | |
1950 | 76 | 202 | 194 | 11 | 46 | 6 | 0 | 2 | 58 | 16 | 0 | 0 | 1 | -- | 7 | -- | 0 | 38 | 1 | .237 | .264 | .299 | .563 | |
1951 | 20 | 35 | 34 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 6 | 1 | .147 | .171 | .176 | .347 | |
通算:4年 | 172 | 353 | 341 | 19 | 73 | 11 | 0 | 3 | 93 | 26 | 0 | 1 | 1 | -- | 11 | -- | 0 | 66 | 2 | .214 | .239 | .273 | .512 |
- 金星は、1949年に大映(大映スターズ)に球団名を変更
背番号
編集注釈
編集脚注
編集- ^ 金星vs中日 1回戦(日本プロ野球記録のページ)
- ^ “巨人の剛腕ピッチャーだったプロレスラー・ジャイアント馬場が語った「2軍時代に後悔したこと」【プロ野球・裏面史探偵(34)】”. 現代ビジネス(講談社) (2024年2月2日). 2024年8月29日閲覧。
- ^ 記録25(プロ野球考古学のページである。1.こんな記録がありました)
- ^ 渡辺 一衛(日本プロ野球記録のページ)
- ^ a b 大映スターズ 背番号26(背番号maniax)※捕手となっているが、一塁手か外野手の誤りである。
- ^ a b 大映スターズ 背番号8(背番号maniax)※捕手となっているが、一塁手か外野手の誤りである。