清音院殿(せいいんいんでん[1][2]、? - 元和5年9月25日1619年11月1日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。父は真田信綱、母は於キタ。真田信之の室で、信之とはいとこ同士(いとこ婚)である。実名は不明。

生涯

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天正3年(1575年)5月21日に長篠の戦いで父・信綱が戦死した後、武田勝頼により真田信幸(信之)との結婚が指示される[3]。これは、真田昌幸真田氏の家督を継承させるに当たり、養子に出て家伝文書を所持していなかった昌幸と、その嫡男の信幸の系統に正当性を持たせるため、当主・信綱の流れも組むようにと配慮された結婚だろうとされている[4]

文禄4年(1595年)に真田信吉を生むが、それ以外の彼女の事績は伝わらない。なお、成立の早い史料では清音院殿が信吉の生母と記されているが、時代が下る真田氏の系図では信吉の生母が「家女」と記されるようになり、彼女の立場は側室待遇になったとみられる[5][6]。その後には小松姫が信吉の生母とされるようになり、次第に彼女の存在も消されていっており、真田家の家記『真田家御事蹟稿』でも彼女の伝記はない。元和5年(1619年)9月25日に死去、戒名は清音院殿徳誉円寿大姉。墓所は不明[7]

関連作品

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テレビドラマ

脚注

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  1. ^ 平山 2016, p. 25.
  2. ^ 丸島 2015, p. 262.
  3. ^ 加沢記』「眞田一徳齋入道御逝去、源太左衞門殿、兵部殿御討死 附富澤働昌幸公御家督之事」。ただしこの史料では信綱の娘は「早世」したとあり、伝えられる没年と合致しない。
  4. ^ 平山 2016, p. 26-27.
  5. ^ 丸島 2015, p. 264.
  6. ^ ただし、武家の一夫一妻制が確立したのは武家諸法度の成立後でそれ以前の婚姻では複数の公式の妻を持つことが可能であったとする研究(福田千鶴「一夫一妻制の原則と世襲制」『近代武家社会の奥向構造 江戸城・大名武家屋敷の女性と職制』吉川弘文館、2018年5月25日 ISBN 978-4-642-03488-3。初出:『歴史評論』747号、 2012年)もあり、小松姫の輿入れ後の彼女の扱いは今後の研究の課題となる。
  7. ^ 平山 2016, p. 27.

参考文献

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  • 丸島和洋『真田四代と信繁』〈平凡社新書〉2015年。 
  • 平山優『真田信之 父の知略に勝った決断力』〈PHP新書〉2016年。 
  • 寺島隆史「真田信之の三人の妻-最初からの妻清音院を中心に-」『千曲』162号、2017年。