清田鎮忠
清田 鎮忠(きよた しげただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将[1]。大友氏の家臣。キリシタンだったと伝えられる[1]。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄2年(1529年)[注釈 1] |
死没 | 天正15年(1587年)11月23日 、一説には天正8年(1580年) |
改名 | 太郎、掃部助、鎮辰、鎮述 |
別名 | 通称:新五右衛門尉鎮忠[1] |
戒名 | 雲霧[1]、玄麟[2] |
官位 | 阿波守 |
主君 | 大友宗麟→大友義統 |
氏族 | 清田氏 |
父母 | 父:清田鑑信[注釈 2]、母:戸次氏 |
兄弟 | 鎮忠、正成、鑑勝、鑑厚、鑑長、立花統春室、清田卜斎室[異説][注釈 3]、戸次親良(山田勝兵衛)室 |
妻 |
正室:一色氏の娘 継室:大友宗麟の長女・ジュスタ(本源院)[注釈 4] |
子 |
清田鎮隅[注釈 5]、清田五郎大夫政家、凉泉院[注釈 6]、女(早逝[注釈 7] 養女:マダレイナ[注釈 9] |
略歴
編集清田氏は大友氏庶流戸次氏の支族[1]。鎮忠は大友宗麟に仕え、天正6年(1578年)には土持親成の籠城する松尾城攻めに参加し、戦功を挙げた[1]。同年の大友宗麟の日向国侵攻の際は野津院衆を率いて活躍したという[1]。
天正8年(1580年)、大友氏を裏切った田原親貫を国東郡実際寺にて破ったが、帰途で負傷しそのまま死去した[1] という。
しかし一説には、長崎にて死亡したとする。『太宰管内志』によると、天正15年(1587年)の九州征伐の際、大友家救援のため「秀吉が小倉に着陣」したとき、島津に寝返った大友家臣らも馳せ参じたが、盲目で重病を患っていた[注釈 10] 鎮忠は代わりに近臣を遣わした。そのとき、島津に与していた輩が鎮忠を讒言したために、鎮忠は追われ肥前国に籠居したという。ルイス・フロイスも「(義統の)義兄弟清田殿」については「所領は没収したが、生命は許した。」と記している。長崎に向かって逃亡した鎮忠・ジュスタとその家族、家来たちを秘かに追跡させたようだ。 途中、肥後国の「御寮人(ジュスタ)に属するある場所」に立ち寄り、その年のうちに長崎に至った。「清田家総領家系図」(柳川関係史料)によると、鎮忠は長崎に牢居した後天正15年(1587年)11月23日病死した。
室のジュスタは大友宗麟の娘であり、当初は土佐国西部の戦国大名一条兼定の継室であった。その後、兼定と離別して天正3(1575年)鎮忠に嫁いだとされる。ジュスタは天正8年(1580年)に受洗し、鎮忠と同様にキリシタンとなった。
子孫
編集鎮忠の婿養子は清田鎮乗とされ、志賀親次の兄弟という。鎮乗は鎮忠の娘・凉泉院との間に細川忠興の側室・吉(幾知、きち、円通院)や男子多数を儲けた。吉は細川立孝を産んでおり、子孫からは元内閣総理大臣の細川護熙が出ている。
脚注
編集注釈
編集- ^ 清田惣領家伝来の系図「柳川関係史料」[要文献特定詳細情報]によると、鎮忠は1587年に58歳で亡くなっているので1529年の生まれ。
- ^ 名は鑑述とも。
- ^ 鎮忠の実妹、洗礼名はマグダレナ。鎮忠の養女・マグダレナ清田と同じ洗礼名を持つ。夫・清田卜斎は鎮忠の義弟・清田ロマンの弟で、洗礼名はシモン。夫婦とも1620年8月17日小倉にて殉教。
- ^ 名はジェスタとも
- ^ 『太宰管内志』『清田家旧記』などに出てくる「鎮忠の嫡子・鎮隅」なる人物は、天正15年(1587)豊前長野一揆に出陣し、そこで命を落としている。これから判断して、同年(1587年)当時、彼はすでに大人であったことは確かである。すなわち、ジュスタ(宗麟娘)と鎮忠が結ばれるのは1575年頃であるから、翌年(1576年)長男・鎮隅が生まれたとしても(ジュスタの子であるなら)「11歳」にしかすぎない。ゆえに鎮忠の男子、長男「鎮隅」、次男「五郎大夫政家」は前妻の子供であったと見るのが妥当である。[独自研究?]
- ^ 熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹凉泉院系」によると清田鎮乗寿閑の妻。
- ^ 大友宗麟の長女・ジュスタとの間に生まれた女。
- ^ 通称は主計。寿閑、浄閑とも。清田鎮忠の婿養子・凉泉院の夫。洗礼名はドン・ペドロ。涼泉院が迎えた夫は志賀家からの養子「ドン・パウロ志賀親次の兄弟」ドン・ペドロ寿閑清田鎮乗である。母は大友宗麟の娘 志賀親度室。実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の女。
- ^ (マグダレナ)清田は、イエズス会の諸記録から見て、宗麟の長女ジュスタ(桑姬・清田鎮忠夫人)と先夫・一条兼定の女(ジュスタの連れ子として鎮忠の養女となる)。生誕は永禄12年 (1569年)、寛永4年(1627)8月17日に宣教師を匿った廉で死刑に処せられた。
- ^ 「1585年8月20日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡」による。司祭はジュスタとその夫(清田鎮忠)の告白を聴き、彼女がデウスの前で、大いにほめられ、家臣の模範になるべき人であると考えた。彼女は夫と公に婚姻の秘蹟を受けることを望んでいた。その夫は盲目で重病を患っていたが、司祭は、その望み通りにした。