清水谷実業
江戸時代前期から中期の公卿・歌人。正二位・権大納言。清水谷家13代。正二位・権大納言
清水谷 実業(しみずだに さねなり)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿・歌人。官位は正二位・権大納言。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安元年3月4日(1648年4月26日) |
死没 | 宝永6年9月10日(1709年10月12日) |
改名 | 六丸(幼名) |
戒名 | 醒泉院芳苑唫秋 |
墓所 | 洛陽寺町盧山寺 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 霊元天皇→東山天皇 |
氏族 | 三条西→清水谷家 |
父母 |
父:堀尾泰長[1] 母:江南院(多賀宗春の娘) 養父:清水谷公栄 |
兄弟 |
永井外紀妻清寿院、菖蒲小路房永春院[2]、実業、押小路公音 養兄弟:三条西実教、 広橋綏光室 |
子 | 雅季、小倉有季[3]、石子[4] |
経歴
編集三条西公紀(堀尾泰長)の第三子長男として誕生。
25歳の時、叔父の三条西公勝の次男で清水谷家を継いだ従兄の公栄の養嗣子となる。
元禄元年(1688年)、霊元院から和歌てにをは口伝を受け、中院通茂、武者小路実陰と共に霊元院歌壇の中心的な歌人の一人として活躍した。
作品・著書には元禄15年(1702年)の百首歌、宝永2年(1705年)の到着百首歌、寛文12年(1672年)の『高雄紀行』などがある。
父母
編集実業4歳の時、実父泰長が江戸へ下向したため離別。その後、実母江南院がシングルマザーのような状態で「貧苦困難に堪え三人の幼子を養育」した。弟公音は「子として莫大の恩儀を被る故を以て普通の親恩に類すべからず」と記している。[5]
多くの記録では単に三条西実条孫とあるか、または父親は三条西公勝とされるが、公勝は実業が生まれる22年前に亡くなっているため、少なくとも実父ではない。
父泰長は『諸家伝』、『野間家譜』以外の公の記録に殆ど名を残していない。『系図纂要』には「三条西実条孫、父武家」とあるが、その「孫」のポジションに実業の名は無く、混乱がみられる。
しかし、弟公音の残した覚書や実業が泰長の「正忌日の祭り」[6]を行なった記録もあるので実父は堀尾泰長(三条西公紀)で間違いないと思われる。
母江南院も家女房であるため公の記録に名を残しておらず、母は清水谷実任女とされたり三条西実条女とされたりするが、弟公音の残した覚書や実業と公音の記録[7]の喪母と記されている日が江南院の亡くなった日(元禄14年10月25日)であるので、少なくとも江南院が実母であることは間違い無いと思われる。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 史料
- 押小路公音覚書『亡父御事』、『母堂御事』、『春秋並び正忌日の祭りの事』(京都市歴史資料館)