清宮質文
1917-1991, 版画家
清宮 質文(せいみや なおぶみ、1917年〈大正6年〉6月26日 - 1991年〈平成3年〉5月11日)は、日本の木版画家。父は版画家・清宮彬(ひとし)。大正の東京都新宿区に生まれ育ち、戦後に美術教師や商業デザイン会社での1年勤務を経て、画家の道を歩み始めた。
画風
編集清宮自身が以下の言葉を残している。「外の限界を拡げることは不可能ですが、内面の世界を拡げることは無限に可能です。」清宮を語る時、最も引用されている言葉である。洋画家の脇田和は「清宮さんの作品は普通の版画とはちがう。筆のかわりに版を使って1枚ずつ描く絵なんだ」と述べた。清宮は作品によって1点1点色や摺りを変えている[1]。また、清宮は自身のことを以下のように述べている。「多くの職業分類の中から一番抵抗のないものを選ぶとすればそれは『詩人』ということになる。」、「私は自分を詩人だと思っている。」、「表現形式に『絵』という方法をとっている詩人である。」[2]。
清宮は水彩画とガラス絵の作品も制作した。水彩については清宮は、「画材というものは音楽でいえば楽器に相当するものでしょう。私にとっての水彩とは、なにかヴァイオリンという感じがします。ヴァイオリンにあった作曲をし、それを充分に鳴らし切ることができたら満足ですが、それはなかなかむずかしいことです」と述べている(『別冊美術手帖』第1号、1982年)[3]。
年譜
編集- 1917年(大正6年)- 東京府豊多摩郡内藤新宿北裏町(現:東京都新宿区)に生まれる。
- 1935年(昭和10年)- 麻布中学校卒業。
- 1937年(昭和12年)- 東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)油画科に入学。藤島武二教室に入り、4年からは田辺至教室で学ぶ。
- 1942年(昭和17年)- 東京美術学校を卒業。長野県上田中学校の美術教師となる(翌年辞職)。
- 1944年(昭和19年)- 慶應義塾工業学校の美術教師となるが、同年中に応召される。
- 1945年(昭和20年)- 東京大空襲で実家が被災し、これまでに制作した作品が焼失。慶應義塾工業学校に復職(1949年辞職)。
- 1954年(昭和29年)- 春陽会第31回展(東京美術館)に『巫女』を初出品、初入選する。岡鹿之助の激励を受ける。以降、1974年の第51回展まで毎回出品する。
- 1959年(昭和34年)- 松井亮子と結婚。
- 1960年(昭和35年) - 自身初の個展、清宮質文木版画展が東京・南天子画廊にて開催される。『キリコ』、『はるかなるもの』、『火を運ぶ女』など20点余りを出品する。
- 1974年(昭和49年)- 春陽会第51回展(東京美術館)に『告別』を出品、春陽会展における最後の出品となる。
- 1991年(平成3年)- 心筋梗塞のため西荻窪の山中病院で死去。
代表作品
編集- 「巫女」-1954年(昭和29年)
- 「葦」-1958年(昭和33年)
- 春陽会第31回展に初出品し、初入選。
- 「火を運ぶ女」1957年(昭和32年)
- 「キリコ」‐1959年(昭和34年)
- 「はるかなるもの」‐1960年(昭和35年)
- 清宮質文木版画展に出品。
- 「小さな炎」‐1969年(昭和44年)
- 「一つの燈」‐1970年(昭和45年)
- 火と炎の絵画展(神奈川県近代美術館)に出品。
- 「告別‐1974年(昭和49年)- 春陽会展に出品した最後の作品。
- 「ながれ」「葬送の花火」「蝶」「ふるさのうた」「幼きもの」「在る空間-蝶」「暗きより暗きへ」「泳ぐ人」「初秋の風」
ガラス絵、モノタイプ、水彩画技法において重要な作品を遺す。
脚注
編集参考文献
編集- 『清宮質文作品集』南天子画廊、1986年
- 『日本現代版画 清宮質文』玲風書房、1992年
- 『内省する魂の版画家 清宮質文展』カタログ、小田急美術館/財団法人NHKサービスセンター、2000年
- 『生誕90年 木版画の詩人 清宮質文展』カタログ、茨城近代美術館、2009年
- 『清宮質文全版画集』玲風書房、2010年
- 『清宮質文ガラス絵作品集』三浦誠、2022年
販売:ミウラアーツ