清原 貞衡(きよはら の さだひら、生没年不詳)は、平安時代後期の武将

人物

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陸奥守源頼俊が行った蝦夷征伐(延久蝦夷合戦)に助勢し、衣曾別嶋荒夷(えぞがわけしまあらえびす)と閉伊七村山徒を平定し日本の東端(北端)を津軽海峡まで到達させたとされ、恩賞として鎮守府将軍従五位下に叙せられた。

この合戦では、武蔵国豊島郡平常家伊豆国田方郡藤原惟房源義家の腹心の藤原基通などの河内源氏傘下の武士たちが追討を被っており、頼俊や貞衡の真の目的は、中央政界での河内源氏の台頭を挫くと共に、「荒夷」征討という大義名分を利用して北方産物の重要な交易ルートである太平洋海運から河内源氏系の勢力を駆逐し、その主導権を確立することだったとする見解もある[1]

前の鎮守府将軍清原武則との関係は不明だが、武則の孫である真衡と同一人物(貞と真の誤記)とする説[2][3]が有力であった。一方で武則の子で真衡の父である武貞の別名とする説もある。また、武則自身を海道平氏出身としてその弟とする説[4][5]、海道平氏出身で武貞の娘婿とする説[6][7]もある[8]。『続群書類従』「清原系図」には、清原武衡について「奥州磐城郡に住す。寛治五年十一月、源義家か為に滅ぼさる」と記されており、また『百錬抄寛治元年(1083年)12月26日条には「平武衡」と武衡の名が平姓を冠して記されている。これらのことから、海道平氏の平貞衡が清原氏へ、清原氏の清原武衡が海道平氏へと、両氏の間で養子の交換が行われた可能性があり、その際に貞衡はおそらく清原武則の娘婿として奥六郡主の後継者の座に就き、同時に清原真衡清衡家衡の継父として彼らの後見役の役割を担うことになったとする見解もある[1]

脚注

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  1. ^ a b 樋口知志『前九年・後三年合戦と兵の時代』吉川弘文館、2016年
  2. ^ 小口雅史「延久蝦夷合戦をめぐる覚書」『日本中世の政治と社会』吉川弘文館、2003年 ISBN 9784642028295
  3. ^ 入間田宣夫「延久二年北奥合戦と清原真衡」『十和田湖が語る古代北奥の謎』校倉書房、2006年 ISBN 4751737503
  4. ^ 野口実「平安期における奥羽諸勢力と鎮守府将軍」『古代世界の諸相』晃洋書房、1993年 ISBN 9784771006706
  5. ^ 野口実『中世東国武士団の研究』高科書店、1994年
  6. ^ 樋口知志「藤原清衡論(上)」『アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要)第82号』岩手大学、2008年
  7. ^ 樋口知志『前九年・後三年合戦と奥州藤原氏』高志書院、2011年 ISBN 9784862150882
  8. ^ 元木泰雄『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』中央公論新社、2011年 ISBN 9784121021274

関連項目

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