清原淳平
清原 淳平(きよはら じゅんぺい、1932年3月23日 - )は、東京都出身の社会活動家。本名は北村雅夫(きたむら まさお)[1]。 公益財団法人協和協会代表理事兼専務理事[1]、時代を刷新する会専務理事、新しい憲法をつくる国民会議 会長[2]。
きよはら じゅんぺい 清原 淳平 | |
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生誕 |
北村 雅夫(きたむら まさお) 1932年3月23日(92歳) |
出身校 | 早稲田大学 |
職業 | 政策立案家 社会活動家 |
経歴
編集大学〜西武時代
編集1956年、早稲田大学社会科学課程卒業[3]。1958年3月、同大学大学院商学研究科世界経済課程を修了して商学修士[3]。引き続いてその博士課程に進学[3]。西武グループの創業者堤康次郎邸に付属する会長秘書室に勤務した[4]。
堤の秘書を務めていた時期に、吉田茂と岸信介に接する機会を得る。堤は吉田と岸を尊敬していて、月に1回程度、箱根の湯の花プリンスホテルで懇談会を催した。清原は、特に堤から指名され、これにほとんど同行した[4]。
執筆活動
編集睡眠時間3時間ほどの生活が毎日続いたため、肋膜炎と診断され、西武を退職。療養生活を送りながら執筆活動に入る[4]。最初の著書「この教育をどうする ―人間性崩壊への挑戦―」を上梓した1973年当時、3人の子供がみな小学生であったため、学校で子供に影響が及ぶことを心配し、「清原淳平」のペンネームを用いた。以来、一貫してペンネームで活動を続けている[3]。
岸信介との関連
編集1978年11月、岸から呼び出しを受け、岸が1974年に設立した「財団法人協和協会」が、実務執行者に人を得ず、本格活動に入れないでいるので、常務理事兼事務局長になってくれ、と委嘱される。清原は辞退したが、岸から「執行を任せる、私が後ろ盾になる」との言葉を受け、決意して就任する[4]。
1981年、岸に財団法人協和協会の姉妹団体として、学者・技術者・教員など専門家によって構成される団体の設立を請願し、財団法人協和協会とは法人格を異にする「時代を刷新する会」を設立し、岸から執行を命ぜられる[4]。現在、専務理事を務める。
1979年1月、岸から、念願だった憲法改正の運動団体、「自主憲法期成議員同盟」と「新しい憲法をつくる国民会議」の事務局も兼務してくれ、と委嘱される。財団法人協和協会の会員に政・財・官・学の有力者が150人ほど入会し、さらに300人までもってゆきたいので手一杯であることを伝えたが、「君なら出来るよ」とおだてられ、やむなく、この2団体の事務局を引き受けた[4]。
著書
編集寄稿
編集脚注
編集外部リンク
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