深尾 茂澄(ふかお しげずみ)は、江戸時代中期から後期にかけての土佐藩の家老。深尾家当主・佐川領主6代。

 
深尾茂澄
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛保元年3月1日1741年4月16日[1]
死没 文化2年8月12日1805年9月4日
改名 信之介(幼名)→茂澄
別名 通称:左近、因幡、湯右衛門
官位 左京亮
主君 山内豊敷豊雍豊策
土佐藩
氏族 山内家深尾家
父母 父:山内茂信、母:深尾繁峯の娘
養父:深尾繁峯
兄弟 養兄弟:繁英山内豊之山内茂信稠済
正室:深尾稠済娘
繁寛山内保氏継室
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略歴

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寛保元年(1741年)、土佐藩8代藩主・山内豊敷の弟である山内隼人茂信の子として誕生した。父・茂信は山内規重の子であり、深尾家3代・重照の玄孫にあたる。

寛延2年(1749年)、深尾繁峯の養嫡子となる。宝暦2年(1752年)、繁峯の死去により家督を相続する。安永元年(1772年)、儒臣として山本日下を登用し、家塾名教館を創設する。寛政11年(1799年)、隠居して家督を嫡男の繁寛に譲る。

文化2年(1805年)8月12日、死去。享年65。

脚注

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  1. ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.383

出典

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  • 『土佐諸家系図』東京大学史料編纂所
  • 『土佐国羣書類従』東京大学史料編纂所
  • 『梅の薫』武藤厚馬著
先代
深尾繁峯
佐川深尾家6代当主
1752年 - 1799年
次代
深尾繁寛