淮陽郡(わいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した東晋から初にかけて、現在の江蘇省宿遷市淮安市一帯に設置された。

概要

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東晋の義熙年間の土断により、淮陽郡が立てられた。淮陽郡は北徐州に属し、郡治は角城に置かれた。

南朝宋のとき、淮陽郡は徐州に属し、角城・晋寧宿預上党の4県を管轄した[1]

467年皇興元年)、北魏が淮陽郡を奪った[2]。淮陽郡は南徐州に属した。

505年天監6年)、南朝梁が淮陽郡を奪った[3]。淮陽郡は東徐州に属した。

549年武定7年)、侯景の乱の混乱に乗じて、東魏が淮陽郡を奪った。東魏の淮陽郡は東楚州に属し、甬城綏化招義淮陽の4県を管轄した[4]

北周のとき、淮陽郡は泗州に属した。

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、淮陽郡は廃止されて、泗州に編入された[5]

脚注

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  1. ^ 宋書』州郡志一
  2. ^ 魏書』孔伯恭伝
  3. ^ 梁書』武帝紀
  4. ^ 『魏書』地形志二中
  5. ^ 隋書』地理志下