海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925年5月20日)は、童謡作家、俳人。本名は厚一(こういち)。俳号は長頸子(ちょうけいし)。

海野厚
誕生 (1896-08-12) 1896年8月12日
死没 (1925-05-20) 1925年5月20日(28歳没)
職業 童謡作家、俳人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
代表作 おもちゃのマーチ、背くらべ
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人物

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静岡県安倍郡豊田村曲金(現:静岡市駿河区曲金二丁目)の出身。生家は大地主だったが、後に没落。

旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ童謡作家となる。俳句同人誌「曲水」にも参加。中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版。雑誌「海国少年」の編集長も務めた。結核のため28歳で死去したため作品数は多くない。没後は西豊田小学校に隣接する法蔵禅寺に葬られ、墓石が存在する。

彼の母校である静岡市立西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。また西豊田小学校すぐ南側の南幹線(カネボウ通り)沿いにある和菓子店の一角には、「海野厚生家跡」の石碑が建てられていた。しかし2012年に同店が閉店したため、2017年現在は企業敷地となっており現存しない。

作品

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この他に小田島作曲の「山は夕焼」を作詞したという説がある。
  • 「ひなまつり」作曲:三宅延齢/中山晋平。(同じ詞に2つの曲がつけられた)
  • 「信号機」作曲:本居長世
  • 「七色鉛筆」作曲:外山國彦
  • 背くらべ」作曲:中山晋平
  • 「露地の細道」作曲:中山晋平
  • 「月夜の畑」作曲:中山晋平
    • 「背くらべ」…… この作品は兄に背の高さを測ってもらった弟の視点で書かれている。しかし実際の厚はこの歌の兄の立場(7人兄弟の長兄)であった。柱の傷が去年のものではなく一昨年なのはこのころ東京に出ていた(早稲田大学在学中)厚が帰省できなかった時のことを弟の気持ちになって書いたからだといわれる(帰省できなかったのは結核の治療のため[1]、恩師の追悼会に出席していたためなど諸説ある)。

脚注

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  1. ^ 日本の童謡研究会『誰も知らなかった本当はこわい日本の童謡』2002年、ワニブックス p.113