海原 清平(かいはら せいへい、1881年明治14年〉12月1日[1] - 1962年昭和37年〉7月6日)は、日本政治家政治活動家衆議院議員(2期、政友会政友本党)。

海原清平

経歴

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1881年(明治14年)、兵庫県神戸市に生まれる。和仏法律学校(現法政大学)を卒業し、徳島県庁に入る。その後、神戸新聞の記者を経て、徳島県属官時代に同県知事であった床次竹二郎の知遇を得ていたことで、床次が鉄道院総裁に就くと、その秘書に抜擢される[2]

内務大臣秘書官に就任した後、第14回衆議院議員総選挙1920年(大正9年))、第15回衆議院議員総選挙1924年(大正13年))に徳島1区から出馬し、当選する。

農商務省山林払い下げにおける詐欺事件で1926年(昭和元年)12月28日、東京控訴院から懲役8月執行猶予1年の有罪判決[3][4]1927年(昭和2年)4月19日、大審院で上告棄却され、確定となり議員失職[5]。議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑でも起訴され、同年12月16日に罰金三百円の判決を受けている[6]。それ以後、公職からは退き、院外団で活動する。

売勲事件に絡んだ記念章請負での詐欺未遂容疑がかかるが、1930年(昭和5年)11月1日、免訴[7][8][9]

1934年(昭和9年)11月21日、自らがパトロンであった2代目市川猿之助が海原に無断で松竹に復帰したことに立腹、猿之助から1500円を脅し取った恐喝で懲役10月の実刑判決(求刑は懲役1年[10])が大審院で上告棄却され、確定[10][11]。これにより正六位を失位した[12]

戦後、自由党自由民主党の院外団(組織名は自由党同交会、自由民主党同志会)の会長(団長)として、非議員ながら政財官界で勢力を振るう。また、日本街商連盟を組織し、その総裁として取り仕切り、街商(俗に言うテキ屋)の有力親分衆を院外団に取り込んでいる[13]。海原は破壊活動防止法案の参議院通過の際、街商を院内に配置、警備に当たらせている[14]

1962年(昭和37年)7月6日死去、80歳。

親族

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防衛官僚・軍事評論家の海原治は甥。

脚注

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  1. ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、28頁。
  2. ^ 『新代議士名鑑』
  3. ^ 海原代議士事件 詐欺罪で起訴さる」『南洋日日新聞』南洋日日新聞社、1924年12月27日、3面。2024年3月2日閲覧。
  4. ^ 海原代議士 懲役八ケ月」『満洲日日新聞』満洲日日新聞社、1926年12月30日、1面。2024年3月2日閲覧。
  5. ^ 官報 1927年4月23日 六三八頁
  6. ^ 暴行十代議士に有罪判決『東京日日新聞』昭和2年12月17日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p240 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  7. ^ 政友会内閣没落民政党内閣組閣史論 : 第一線に立つ人々 一一六頁
  8. ^ 日本政党罪悪史 一九九頁
  9. ^ 時事年鑑 昭和7年版 三八九頁
  10. ^ a b 海原元代議士に懲役一年求刑 猿之助事件で」『朝鮮新聞』朝鮮新聞社、1933年8月23日、朝刊、5面。2024年6月13日閲覧。
  11. ^ 判決要録 第25巻(昭和10年版) 法曹日誌 (十月・十一月) 八頁
  12. ^ 官報 1935年8月17日 四八四頁
  13. ^ 『戦後史秘話 総理を刺す』
  14. ^ 第15回国会 参議院 議院運営委員会 第13号 昭和27年12月17日

参考文献

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  • 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
  • 正延哲士『戦後史秘話 総理を刺す』三一書房、1991年。