浦島太郎伝説関係資料
浦島太郎伝説関係資料(うらしまたろうでんせつかんけいしりょう)は、横浜市登録の地域有形民俗文化財の一つ[1][2]。1995年(平成7年)11月1日登録[1][2]。同市神奈川区に伝わる浦島太郎伝説にまつわる観世音像や塔・碑の計7点が登録されている[1]。現在の所有者は同区内の慶運寺と蓮法寺であるが[1]、もともとは1873年(明治6年)に廃寺となった観福寺(観福寿寺)にあったものとされている[3][4]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Keiunji_-01.jpg/220px-Keiunji_-01.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/Renho-ji_%28yokohama-city%29_sanmon.jpg/220px-Renho-ji_%28yokohama-city%29_sanmon.jpg)
神奈川の浦島伝説
編集民話
編集浦島太郎の物語は日本全国に様々なバリエーションが伝えられているが、横浜市神奈川区にも一般的に知られているものとは異なる浦島太郎の物語が伝わっている[5][6]。概略は次のようなものである[7]。
むかし、相模国三浦を治める水の江浦島太夫(みずのえのうらしまだいゆう)という人がいた。太夫には太郎という息子がいた。あるとき太夫は朝廷から大裡という役を与えられ、太郎を連れて丹後国へ移住した。ある日、太郎が小舟で釣りをしていると、五色に輝く珍しい亀を釣り上げた。太郎が船の上で居眠りをしている間にその亀は美女(乙姫)に変化し、太郎は乙姫に連れられて竜宮城に行き、歓待を受けた。3年が過ぎ、父母のことが恋しくなった太郎は暇を乞い、乙姫から玉手箱と観音像を授けられて丹後へと戻る。しかし丹後の様子は全く変わっており、父母も知人も見当たらない。道であった老人に「300年ほど前に浦島太夫という者の子の太郎が釣りに行ったきり帰ってこなかったことがあったと聞く。太夫は悲しんだが、そのまま年を取り亡くなったという。亡骸は武蔵国の白幡の峰に葬られているそうだ」という話を聞く。太郎は嘆き、乙姫との約束を忘れて玉手箱を開けてしまい老人となってしまった。
老人となった太郎は父母の菩提を弔おうと武蔵国へ向かい、苦しい旅の末に白幡の峰までたどり着く。その時、一本の松に不思議な明かりが灯り、その下に行ってみると両親の墓があった。この明かりは、乙姫が太郎に墓の場所を知らせるために灯したのだった。太郎は、墓のそばに庵を建て菩薩像を安置して父母の霊を弔い、この地で亡くなった。
乙姫が明かりを灯した松は「龍燈の松」と呼ばれるようになり、太郎の庵は観福寺(観福寿寺)となった。
観福寺略縁起
編集武蔵国神奈川宿にあった観福寺の縁起書にも、同寺の由緒として浦島太郎伝説が記されていたようである[1][2]。正規の縁起書そのものは残っていないが、江戸時代に作られた略縁起が現存する[6]。そこに記された浦島太郎伝説の概略は次のようなものである[6][8][9]。なお、複数の略縁起があり各々異同があるため、ここでは文政3年(1820年)頃に記された『浦島観音および二神像・略縁起』に基づいて記述し、他の略縁起との相違については注釈で述べる。
雄略天皇の時代(457年 - 479年)、相模国三浦半島出身の浦島太夫は、一家で丹後国に移住した。太夫には、太郎重長という息子がいた。ある日、太郎が舟で釣りをしていると、大きな亀を釣り上げた。その亀は美女(乙姫)に変化し、太郎は乙姫に連れられて竜宮城に行き、歓待を受けた。やがて父母のことが恋しくなった太郎は暇を乞い、乙姫から玉手箱と観音像を授けられて丹後へと戻る。しかし、父母も知人も見当たらない[注釈 1]。困惑した太郎が観音像に祈ると、夢の中で「故郷の三浦半島へ、我を背負って下れ」とのお告げを受けた。太郎は、観音像を背負い、玉手箱を抱いて関東へと向かった[注釈 2]。三浦半島に戻った太郎は、太夫の9代後の子孫に会い、太郎の父母は300年前に武蔵国白幡に葬られているということを聞いて、300年もの間竜宮城にいたことを知るのであった[注釈 3]。
太郎は、父母の菩提を弔って小堂を建てて観音像と玉手箱を奉納すると、浜辺から何処ともなく消え去っていった[注釈 4]。天長2年(825年)のことであった。
その後の天長7年(830年)7月7日、太郎と乙姫が霊亀に乗って海に現れ、「われら人々の願いを受けて観音像を守護する」という言葉を残して消えていった。人々は、太郎の建てた小堂を立派な寺院として建て直し、太郎を浦島大明神、乙姫を亀化龍女神として像を造り、観音像とともに信仰している。[注釈 5]
神奈川に伝わる浦島太郎伝説の特徴としては、「太郎の出身地が三浦半島であるとされていること」「竜宮城から玉手箱だけでなく観音像も持ち帰ったとされていること」「玉手箱を開けていないこと(開けたとするものもある)」などがあげられる[6]。
浦島寺
編集観福寺の略縁起によれば、太郎が建てた小堂は、空海の弟子である真言宗の実恵によって観福寺として開基されたとしている[10][11]。その後荒廃してしまったが、応長・正和年間(1311年 - 1317年)に浄土宗白幡派開祖の寂恵によって浄土宗の寺院として再興されたといわれている[10][11]。江戸時代になると、観福寺は浦島太郎ゆかりの寺として東海道沿いの名所の一つとなり[12][13]、太郎が竜宮城から持ち帰った観音像は「浦島観音」、観福寺は「浦島寺」と呼ばれて信仰を集めた[4][13]。
しかし、慶応4年(1868年)[注釈 6]に火災にあって堂宇を失う[1][2]。幸い観音像と二神像は難を逃れ、その他の寺宝とともに本寺である慶運寺に運ばれた[14][15]。後に同寺に観音堂が建てられてそこに安置される[3]。これ以降、観福寺に代わって慶運寺が浦島寺と呼ばれるようになった[3][15]。また、観福寺は再建されることなく廃寺となり、その跡地には1926年(大正15年)に日蓮宗の蓮法寺が移転してきた[15]。そのため、敷地内や裏の浦島山に残されていた石塔や石碑などは、蓮法寺が管理するようになった[15]。
これらの慶運寺と蓮法寺が所有している浦島太郎伝説にまつわる事物のうちの7点が、浦島伝説を伝えるものとして1995年(平成7年)11月1日に「浦島太郎伝説関係資料」の名称で横浜市の地域有形民俗文化財に登録されている[1][2]。
登録資料
編集慶運寺所有
編集登録資料のうち慶運寺に伝わるものは、観音像と塔・碑の計3点である[1]。いずれも被災した観福寺から持ち込まれたとされるものである[3][15]。
- 本尊浦島観世音 1躯
- 観福寺の本尊であった高さ1尺3寸(約40センチメートル)の観音像[14][16]。木造(寄木造)、彫眼の立像で、彩色された跡がわずかに残っている[14]。左手にハスの花を持ち、蓮台の下を亀が支えている[14]。「聖観世音菩薩像」[16]や「亀乗浦島聖観世音立像」[14]などとも呼ばれる。造立時期ははっきりしないが、元禄6年(1693年)の増上寺末寺帳に記述があることから、少なくとも元禄時代には造立されていたと考えられる[14]。
- 現在は、慶運寺内の浦島観音堂に浦島大明神立像・亀化龍女神立像とともに安置されており[16]、12年に1度の子年の開帳時にのみ一般に公開されている[17]。
- 浦島父子塔 1基
- 正面に淳和天皇の勅願所であったこと、右側面には寺内に浦島父子の塚があること、左側面に浦島大明神と亀化龍女神が鎮座することが刻まれている[18][19]。裏面には、天明8年(1788年)11月に建立したことや、当時の住職や建立の発起人名などが刻まれている[18][20]。
- 観福寺焼失前は、東海道から観福寺へ入る道の角にあったと考えられている[21][信頼性要検証]。現在は、慶運寺の本堂の前、浦島観音堂の左側に置かれている[18][21]。
- 浦島寺碑 1基
- 亀の形をした石の上に載せられている石碑である[18]。正面に「龍宮伝来 浦島観世音 浦島寺」、側面には浦島観音が百観音の一つであることや浦島観音の由来、さらに塔の修造や再建の記録などが刻まれている[18][22]。塔は天明元年(1780年)、台石は文政8年(1825年)の建立とある[18][23]。
- 観福寺焼失前は、浦島父子塔ともに東海道から観福寺へ入る道の角にあったと考えられている[21][信頼性要検証]。現在は慶運寺の門前に立てられている[23]。
蓮法寺所有
編集登録資料のうち蓮法寺に伝わるものは、塔・碑4点である[1]。これらは、観福寺が廃寺になった後もその地に残され、後に移転してきた蓮法寺の所有となったものである[3][15]。
- 伝供養塔 3基
- 2基は五重の石塔、もう1基は亀の石像である。浦島父子の供養塔と伝えられる[2]。五重の石塔が太郎が父母を祀ったもの、亀の石像が太郎の墓と言われている[24]。若干の欠損と、近年手を加えられた形跡がある[19]。本来、亀像の背の上には塔が乗っていたが、現在は残っていない[25]。
- 五重の石塔は、観福寺焼失前は観音堂の近くにあったと考えられている[26][信頼性要検証]。亀の石像は、もともと観福寺の裏手にあった浦島山の龍燈の松の根本にあったもので、亀齢塔や浦島塚とも言われていたものである[27][28]。現在は、蓮法寺の階段を上がった門の左側にある[29]。
- 顕彰歌碑 1基
脚注
編集注釈
編集- ^ 享保14年(1729年)頃に記された『浦島縁起』では、ここで、一般的な「浦島太郎」と同じく玉手箱を開けて老人となったとする。
- ^ 天明年間(1780年 - 1788年)頃の『浦島観世音略縁起』では、その途中の箱根山で玉手箱を開けて老人となったとする。
- ^ 『浦島縁起』と『浦島観世音略縁起』では子孫に会っておらず、武州霞の浦で観音像が突然重くなり、腰かけた場所で太夫の墓を見つけたとする。
- ^ 『浦島縁起』と『浦島観世音略縁起』では、太郎はそのまま草庵を結んで観音菩薩に仕えたとする。『浦島観世音略縁起』では、太郎は8,000歳まで生きて仙人になったとも。
- ^ 『浦島縁起』と『浦島観世音略縁起』にはこの後日談はなく、太夫の子孫で淳和天皇の第4后妃となった如意尼が、弘法大師空海に依頼して太郎の庵を真言密教の道場としたとする。
- ^ 慶運寺観音堂棟札では慶応3年(1867年)としているが、他の資料で同年に焼失したとするものはない(三舟(2009)、149頁)
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課(1995)、97頁。
- ^ a b c d e f 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課(2001)、40頁。
- ^ a b c d e 横浜市歴史博物館(2005)、10頁。
- ^ a b 三舟(2009)、141頁。
- ^ 三舟(2009)、142頁。
- ^ a b c d 阿諏訪(2006)、4頁。
- ^ 萩坂昇『よこはまの民話』むさしの児童文化の会〈神奈川の民話〉、1976年、97-103頁。
- ^ 三舟(2009)、142-143頁。
- ^ 横浜市歴史博物館(2005)、26-27頁。
- ^ a b 三舟(2009)、145頁。
- ^ a b 横浜市歴史博物館(2005)、29頁。
- ^ 三舟(2009)、146頁。
- ^ a b 横浜市歴史博物館(2005)、12頁。
- ^ a b c d e f 横浜市歴史博物館(2005)、138頁。
- ^ a b c d e f 三舟(2009)、150頁。
- ^ a b c 前田(2001)、35頁。
- ^ 横浜市歴史博物館(2005)、17頁。
- ^ a b c d e f 横浜市歴史博物館(2005)、31頁。
- ^ a b c d e f 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課(1995)、98頁。
- ^ a b c d e f 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課(1995)、99頁。
- ^ a b c 前田(2001)、37頁。
- ^ 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課(1995)、99-101頁。
- ^ a b 三舟(2009)、152頁。
- ^ 横浜市立浦島小学校家庭教育学級運営委員会 編『神奈川宿いまむかし』横浜市立浦島小学校、1995年。
- ^ 三舟(2009)、153頁。
- ^ 前田(2001)、45頁。
- ^ 前田(2001)、47頁。
- ^ 横浜市歴史博物館(2005)、153頁。
- ^ 三舟(2009)、151頁。
- ^ a b c d e f 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課(1995)、102頁。
- ^ a b 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課(1995)、101頁。
- ^ 前田(2001)、50頁。
参考文献
編集- 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課 編『横濱の文化財 横浜市指定・登録文化財編 第四集』横浜市教育委員会社会教育部文化財課、1995年。
- 横浜市教育委員会生涯学習部文化財課 編『横浜の指定・登録文化財』横浜市教育委員会生涯学習部文化財課、2001年。
- 前田右勝編・著『浦島伝説と神奈河-附加奈川七曲山城』前田右勝、2001年。
- 横浜市歴史博物館 編『よこはまの浦島太郎-開館10周年記念特別展』横浜市歴史博物館、2005年。
- 阿諏訪青美著「よこはまの浦島太郎」『有隣』第458号、株式会社有隣堂、2006年1月、4頁。
- 三舟隆之『浦島太郎の日本史』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー285〉、2009年。
関連文献
編集- 斎藤長秋 編「巻之二 天璇之部 浦島塚」『江戸名所図会』 一、有朋堂書店、1927年、521頁。NDLJP:1174130/266。