浅野 忠順(あさの ただより)は、江戸時代中期の安芸国広島藩家老三原浅野家第9代。

 
浅野 忠順
時代 江戸時代
生誕 寛政2年5月1日1790年6月13日
死没 文政7年4月24日1824年5月22日
改名 忠順→修
別名 幼名:富之丞、通称:甲斐、遠江、千尋
墓所 広島県三原市本町妙正寺
主君 重晟斉賢
安芸広島藩家老
氏族 浅野氏
父母 父:浅野重晟、養父:浅野忠愛
兄弟 斉賢森快温長懋忠順
[1]、養子:忠敬
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略歴

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寛政2年(1790年)5月1日、広島藩主浅野重晟の七男として安芸広島城中で生まれる。寛政5年(1793年)12月5日、4歳で三原家先代忠愛の跡を継いだ。[2]

文化元年(1804年)8月、実兄の藩主浅野斉賢御目見し、元服して忠順と名乗る。

文化11年(1814年)8月、病により隠居して家督を養子の忠敬に譲り、三原に移住した。格別の由緒から藩より毎年銀十八貫目を賜った。[3]文政2年(1819年)、修と改名する。文政6年(1823年)、三原城二の丸に別邸を建設して移り住む。[2]

文政7年(1824年)4月24日、三原で死去、享年35。菩提寺の妙正寺に葬られた。

龍泉寺(広島県三原市小泉町)境内に「禅は禅の 色香見せけり 山桜」と詠んだ忠順の句碑が建てられている。

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 25頁。
  2. ^ a b 御調郡誌
  3. ^ 三原市史


参考文献

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