浄運寺 (たつの市)
清涼山浄運寺(じょううんじ)は、兵庫県たつの市御津町室津にある浄土宗の寺院。知恩院の末寺。法然上人霊跡の一つ。遊女の元祖とされる友君[1]、また『お夏清十郎』ゆかりの寺としても知られている[2]。
浄運寺 | |
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北側 山門 | |
所在地 | 兵庫県たつの市御津町室津168 |
位置 | 北緯34度45分51.7秒 東経134度30分17秒 / 北緯34.764361度 東経134.50472度座標: 北緯34度45分51.7秒 東経134度30分17秒 / 北緯34.764361度 東経134.50472度 |
山号 | 清涼山 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
創建年 | 1185年(文治元年) |
開基 | 信寂 |
正式名 | 清涼山浄運寺 |
法人番号 | 2140005006860 |
歴史
編集1185年(文治元年)、法然の弟子・信寂が開基[1]。播磨国の教化の道すがら、室津の長者十川氏の帰依を受け建立したと伝えられている。元来は西方寺と呼ばれていたが、慶長年間に浄運寺と改称された[3]。
1207年(建永2年)、京都より讃岐国へ配流される法然が室津に立ち寄り、遊女・友君へ説法したとされ[1]、以来当寺は法然の遊女教化を伝える霊跡となっている[3]。
遊女・友君
編集かつて西海路の港として賑わっていた室津には、他の港町同様旅人のための遊廓があり、「室の君」と呼ばれた遊女の長は容姿・品格・芸技に抜きん出ていたため数々の伝承が残されている[2]。以下に、その一人であった友君についての伝承を記述する。
友君は本名を「ふき」と言い、木曽義仲の第3夫人[注 1] で、京都では山吹御前と呼ばれていた。その後義仲の討死により播磨国へ逃れた彼女は、途中の室津で身ごもっていた子供を死産。供養のため当地に留まり遊女[注 2] となった[1][2]。
遊女・友君となったふきは琴を弾き、踊りを舞い、今様を謡って船旅の客を接待したが、心付けを受け取ることは決してなかった。ただし、亡子と義仲の菩提を弔っていることを知った客人より「花代」「線香代」として差し出されたお金については有難く受け取った[注 3][1][2]。
そして1207年(建永2年)、法然が潮待ちで当地に立ち寄った際、友君は小舟をこぎ出し、自らの遊女としての将来に対する不安を打ち明ける。法然は「罪は決して軽いものではない。早く他に生きる道を見つけなさい。もし良い案が浮かばないのならば、ひたすら念仏を唱えなさい。阿弥陀如来は罪深い者こそ救って下さる」との教えを請う。その説法に感激した彼女は法然より得度を受け、当寺へ出家した。のちに赦免となった法然が京都への帰路室津に立ち寄り友君のことを尋ねると、彼女はその後、一筋に念仏を唱え往生したとのことである[1][2][注 4]。
境内
編集-
西門より海を望む
交通アクセス
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 第2夫人の記述も見られる。
- ^ 柳田国男の説によると、遊女の起源は巫女とされ、本来の「神の使い」に加え、高貴な参拝者たちを接待する役割があり、やがて接待専門となった者が遊女と呼ばれたとしている。
- ^ これはのちに色街で使うようになった花代の起こりとされたことから、「遊女の元祖」の所以とされている
- ^ なお、前述の小舟に乗った友君が法然より説法を受ける内容については『法然上人絵伝』などに描かれているが、のちの研究により創作である可能性が指摘されている。
友君にまつわる伝承は、当初法然に結縁(仏道に入る縁を結ぶこと)を求めたのみの内容であり、法然が女人往生を説いた是非についても意見が分かれている。
これら伝承の変化の背景には、当時の仏教における女人罪業観が民衆レベルにまで浸透していったことにより、仏法による女性の救済に本格的に取り組むようになったこととの関連が挙げられている。(出典:御津町史 第1巻 P.304-306)
出典
編集参考文献
編集- 神戸新聞文化部 編『社を訪ねて ひょうごの神社とお寺 上』神戸新聞総合出版センター、1989年9月30日。ISBN 4875214596。
- 橘川真一 編『はりま伝説散歩』神戸新聞総合出版センター、2002年12月10日。ISBN 4343001849。
- 御津町史編集専門部委員会 編『御津町史 第1巻』御津町、2001年3月31日。
- 御津町史編集専門部委員会 編『御津町史 第4巻』御津町、1999年9月30日。