洲埼 (軽質油運搬艦)
洲埼(すのさき)は、日本海軍の給油艦。軽質油運搬艦である洲埼型給油艦の1番艦。艦名は千葉県房総半島南西の洲崎による。艦名は大正時代の給油艦「洲埼」に続いて2代目。
洲埼 | |
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東京湾で公試中の「洲埼」(1943年5月)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 三菱重工業横浜船渠[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 運送艦[3](揮発油運搬艦(小)[4]) |
級名 | 洲埼型[3] |
建造費 | 成立予算 6,000,000円[5] |
母港 | 横須賀[6] |
艦歴 | |
計画 | ④計画[7] |
起工 | 1942年3月25日[7][4] |
進水 | 1942年12月28日[7][4] |
竣工 | 1943年5月15日[4][注釈 1] |
最期 | 1944年10月4日擱座放棄 |
除籍 | 1945年3月10日[8][注釈 2] |
要目(計画) | |
基準排水量 | 4,465英トン[9] |
公試排水量 | 4,700トン[9] |
満載排水量 | 4,281.5トン[9] |
全長 | 108.50m[9] |
水線長 | 106.00m[9] |
垂線間長 | 102.00m[9] |
最大幅 | 15.00m[9] |
深さ | 9.30m[9] |
吃水 |
公試平均 5.00m[9] 満載平均 5.11m[9] |
ボイラー | 補助缶:ホ号艦本式缶[10]2基[11] |
主機 | MAN式四号ディーゼルエンジン2基[11] |
推進 |
2軸 x 158rpm[11] 直径2.900m[11]、ピッチ2.760m[12] |
出力 | 4,500馬力[9] |
速力 | 16.0ノット[9] |
燃料 | 重油 240.00トン[9] |
航続距離 | 4,000カイリ / 14ノット[9] |
乗員 |
計画乗員 161名[13] 竣工時定員 168名[14] |
搭載能力 |
補給物件(竣工時)[15] 軽質油 1,080トン 航空機用潤滑油 173トン 弾薬火工品 爆弾の時205トン、魚雷の時192トン[注釈 3] 生糧品 8トン、真水 53トン、航空材料 5トン |
兵装 |
45口径十年式12cm高角砲 単装2門[16] 25mm機銃 連装2基[16] |
搭載艇 | 9m内火艇1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船1隻[17] |
その他 | 20トン・クレーン1基[18]、5トン・デリック1基[1] |
艦歴
編集仮称艦名第103号艦[7]。1939年(昭和14年)度の④計画により三菱重工業横浜船渠で建造され、1943年(昭和18年)5月15日竣工。横須賀鎮守府籍となり、同日連合艦隊付属となる[19]。「洲崎」の竣工後の行動は断片的にしか判明していないが、佐世保へ回航された後、6月15日には、特務艦「足摺」、陸軍タンカー「黒潮丸」(中外海運、10,518トン)、タンカー「あまつ丸」(石原汽船、10,567トン)とともに船団を構成して佐世保を出港して南方へ向かう[20]。時はヒ船団開設前夜、まず敷設艇「平島」の護衛で高雄に向かい[20]、高雄では「あまつ丸」と別れ、また護衛艦が「平島」から駆逐艦「若竹」に代わり、「Z船団」を名乗って6月21日に高雄を出港[21]。サンジャックを経由し、6月28日に昭南(シンガポール)に到着した[22]。9月2日には、サ12船団に加入して昭南に向かう[19][23]。2日後の9月4日未明、船団はアメリカ潜水艦「パーゴ」 (USS Pargo, SS-264) の攻撃により中型タンカー「隆栄丸」(日東汽船、5,142トン)が損傷するが、それ以上の被害は出なかった[24]。12月から1944年(昭和19年)にかけては、12月5日門司出港のサ17船団[25]などで日本本土と昭南の間を往復した[19]。
「洲崎」は3月にバリクパパンへ進出後[19]、特設運送船(給油)「国洋丸」(国洋汽船、10,026トン)および「玄洋丸」(浅野物産、10,018トン)と船団を構成し、4月17日にバリクパパンを出港してパラオに向かう[26]。当初の計画ではパラオで「国洋丸」および「玄洋丸」と分離し、特設運送船(給油)「雄鳳丸」(飯野海運、5,135トン)と改めて船団を編成してサイパン島に回航されるはずであった[27]。しかし、ニューギニア北部沿岸にアメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)が遊弋しているとの報を受けて、船団はパラオを回避して「雄鳳丸」を含んだ全船がサイパン島に向かうこととなり、4月26日にサイパン島に到着した[28]。サイパン島で燃料陸揚げの後、4月29日にサイパン島を出港してバリクパパンに向かい[29]、5月7日に到着[30]。以後はバリクパパンと、第一機動艦隊(小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)が進出していたタウィタウィ、あるいはパラオとの間で燃料補給に従事[31][32]。「あ号作戦」発動後、「洲崎」は特設運送船(給油)「興川丸」(川崎汽船、10,043トン)とともに第三補給部隊を編成した[33]。マリアナ沖海戦の後、7月18日に南西方面艦隊付属となった[19]。
8月1日、「洲崎」は北緯05度07分 東経119度34分 / 北緯5.117度 東経119.567度の地点を航行中にアメリカ潜水艦「パファー」 (USS Puffer, SS-268) に発見される[34]。「パファー」は魚雷を6本発射し、うち2本が命中して「剣埼型潜水母艦」は沈没したと判定された[35]。損傷した「洲崎」は9月1日にマニラに入港し、カヴィテで修理に当たる[19]。しかし、入渠中の9月21日にアメリカ第38任務部隊艦載機の爆撃を受けて弾薬庫に引火し大火災が発生[36]、10月4日に出渠しカナカオ灯台沖に擱座、放棄された[36]。1945年(昭和20年)3月10日除籍[8][注釈 2]。
歴代艦長
編集- 艤装員長
- 新美和貴 大佐:1943年2月1日 - 5月15日[37]
- 特務艦長
同型艦
編集- 高崎 [III]
脚注
編集注釈
編集- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.575では昭和19年12月10日竣工となっているが誤り。
- ^ a b #日本海軍特務艦船史p.25などでは1944年12月10日除籍となっている。
- ^ 爆弾の時は800kg57個、250kg229個、60kg363個。魚雷の時は九一式魚雷27本、爆弾が800kg45個、250kg183個、60kg243個
出典
編集- ^ a b #日本海軍特務艦船史p.25
- ^ #S17.1-12達/9月画像34-35『達第二百六十號 昭和十六年度及昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦六隻、驅潜艇二隻及特務艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和十七年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎(中略)三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 特務艦 洲埼(スノサキ)』
- ^ a b #S17.7-9内令3巻/昭和17年9月分(3)画像12『内令第千七百七十九號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 運送艦、足摺型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | 洲埼型 | 洲埼 || 風早型 | 風早 |』
- ^ a b c d #昭和造船史1pp.794-795。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.565
- ^ #S18.5-6内令2巻/昭和18年5月(5)画像20『内令第九百四十二號(中略)特務艦洲埼 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル(中略)昭和十八年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎』
- ^ a b c d #戦史叢書31海軍軍戦備1p.575
- ^ a b #S20.1-S20.8秘海軍公報/3月(2)画像17-18『内令第二二八號(中略) 横須賀鎮守府在籍 特務艦洲埼 佐世保鎮守府在籍 特務艦野崎 右帝國特務艦籍ヨリ除カル 昭和二十年三月十日 海軍大臣』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「特務艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁。
- ^ #海軍造船技術概要上巻p.888
- ^ a b c d 「特務艦 一般計画要領書 附現状調査」24頁。
- ^ #海軍造船技術概要下巻p.1726
- ^ 「特務艦 一般計画要領書 附現状調査」27頁。
- ^ #S18.5-6内令2巻/昭和18年5月(5)画像27『内令第九百五十四號 海軍定員令中左ノ通改正セラル 昭和十八年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 運送艦定員表其ノ十一ヲ別表ノ如ク定ム(別表一葉添)』、同画像36『| 第九十一表ノ七 | 運送艦定員表 其ノ十一 | | 洲埼 |(詳細備考略)|』士官10人、特務士官2人、准士官5人、下士官40人、兵111人。
- ^ #海軍造船技術概要上巻pp.888-889
- ^ a b 「特務艦 一般計画要領書 附現状調査」5頁。
- ^ 「特務艦 一般計画要領書 附現状調査」30頁。
- ^ #写真日本の軍艦第13巻p.25
- ^ a b c d e f g h #日本の軍艦13p.45
- ^ a b #佐鎮1806p.38
- ^ #高警1806p.21
- ^ #一護1806p.22
- ^ #一護1809p.33
- ^ #佐鎮1809pp.5-7
- ^ #一護1812p.24
- ^ #十戦1904p.34, pp.39-40
- ^ #十戦1904p.34
- ^ #十戦1904pp.45-47
- ^ #十戦1904pp.48-49, p.57
- ^ #十戦1905pp.6-7, p.19
- ^ #十戦1905pp.21
- ^ #日栄丸(1)pp.13-15
- ^ #日栄丸(2)p.4
- ^ #SS-268, USS PUFFERpp.206-207
- ^ #SS-268, USS PUFFERpp.238-239
- ^ a b #日本の軍艦13p.46
- ^ a b 『日本海軍史』第10巻、312頁。
- ^ 昭和18年11月17日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1263号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072094400 で閲覧可能。
- ^ 昭和19年11月18日付 秘海軍辞令公報 甲 第1646号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072102000 で閲覧可能。
参考文献
編集- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 佐世保鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030345600。
- 『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 高雄警備府戦時日誌』。Ref.C08030510900。
- 『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 (第一海上護衛隊)戦時日誌抜粋』。Ref.C08030139700。
- 『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 (第一海上護衛隊)戦時日誌』、21-46頁。Ref.C08030139800。
- 『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 佐世保鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030347800。
- 『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』。Ref.C08030140200。
- 『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 第十戦隊戦時日誌』。Ref.C08030050400。
- 『自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 第十戦隊戦時日誌』。Ref.C08030050500。
- 『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 特設運送船(給油船)日栄丸戦時日誌』、1-66頁。Ref.C08030685200。
- 『自昭和十九年五月十九日至六月二十日 第一補給部隊戦闘報告(日栄丸指揮官指揮期間)』。Ref.C08030685300。
- 『昭和17年1月~12月 達/9月』。Ref.C12070115400。
- 『昭和17年7月~9月 内令 3巻/昭和17年9月分(3)』。Ref.C12070165000。
- 『昭和18年5月~6月内令2巻/昭和18年5月(5)』。Ref.C12070177600。
- 『自昭和20年1月.至昭和20年8月 秘海軍公報/3月(2)』。Ref.C12070504300。
- (Issuu) SS-268, USS PUFFER. Historic Naval Ships Association
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 海防艦顕彰会(編)『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年。
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9。
- 『世界の艦船増刊第47集 日本海軍特務艦船史』、海人社、1997年。
- (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。
- 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0658-2。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦13 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6。
- 「特務艦 一般計画要領書 附現状調査」
関連項目
編集- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 洲埼 [I]
- マリアナ沖海戦