波多野氏 (三好長慶正室)
生涯
編集「丹波守護」と呼ばれる実力者[1]・波多野秀忠の娘として生まれる[2]。天文9年(1540年)12月、当時摂津下郡の守護代だった三好長慶との間に祝言を挙げた(『天文日記』)[3]。父・秀忠と三好長慶は共に細川晴元に従っていたが、秀忠の叔父・柳本賢治と長慶の父・三好元長の代には激しく対立するなどしていた[4]。この婚姻はその関係を解消するものともなっている[5]。
天文11年(1542年)、長慶との間にその嫡子となる三好義興が生まれ、同年9月、本願寺証如から長慶に祝儀が贈られた[6]。
しかし天文17年(1548年)、父・秀忠が死去すると長慶は波多野氏を離縁[7]。翌天文18年(1549年)5月、長慶は主君・細川晴元と争ってきた細川氏綱方の遊佐長教からその養女(遊佐氏)を妻に迎えた[7]。長慶は天文17年(1547年)より主君・晴元と対立しており、天文18年(1549年)6月の江口の戦いで晴元勢を破って、晴元や将軍・足利義輝を京から追放している[8]。
父・秀忠の跡を継いだ兄弟の波多野元秀は晴元を支持して、三好長慶との対立を続けた[9]。天文21年(1552年)、元秀は長慶により居城の八上城を攻められ、永禄2年(1559年)12月までに三好方によって八上城を奪われている[9]。
なお、長慶と離縁後の波多野氏の消息は不明である。
脚注
編集参考文献
編集- 天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社〈中公新書〉、2021年。ISBN 978-4-12-102665-1。
- 天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編 下』戎光祥出版、2023年。ISBN 978-4-86403-447-0。
- 福島克彦「波多野秀忠・元秀―丹波の覇権を握った京兆家被官」(143–158頁)
- 天野忠幸「三好長慶―足利将軍を擁さない畿内の"覇者"」(191–204頁)
- 天野忠幸「三好義興・義継―長慶の後継者としての重圧」(205–221頁)