波合 胤成(なみあい たねなり)は、戦国時代の武将。通称備前守原胤成とも[1]

 
波合胤成
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天正3年(1575年
別名 原胤成、備前守
官位 備前守
主君 武田信玄
氏族 千葉市流原氏波合氏
兄弟 原胤光波合胤成
波合萬五郎
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略歴

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原胤光の弟。弘治2年(1556年)より武田信玄に仕え波合(現・長野県下伊那郡阿智村、「浪合」とも)において知行600石を領した。元亀2年(1571年)に住む所を屋号にするよう命じられたため、原から波合に変わった[2]。浪合関所の番頭役。

川中島の戦いで武功を立てた。天正3年(1575年長篠の戦いにおいて討死。子の萬五郎が相続した [1]

天正5年(1577年)、尹良山堯翁院(長野県下伊那郡阿智村浪合)の開祖とされる。

子孫は江戸時代に浪合関所の番頭を務めた。

参考文献

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  • 『上伊那郡史』(上伊那郡史教育会、1921年、1921p)
  • 『甲斐志料集成国志部 6巻』(甲斐志料刊行会、1935年、238p)
  • 『長野県宝、長野県有形民俗文化財及び長野県史跡の指定並びに長野県天然記念物の指定解除について』、長野県文化財・生涯学習課、2018年。

脚注

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