油壺湾
概要
編集西側の網代崎(あじろさき)と東側の名向崎(なこうざき)に挟まれたリアス式海岸の入り江で、幅100 - 150 m、奥行700 mと東西に細長い。浸食谷の沈降によって生じた湾である[1]。
行政区域としては神奈川県三浦市三崎町に属する。湾の奥に至るまでに地形的に何段階か折れ曲がっているおかげで外海のうねりが到達せず、また周囲の岬の高さとそこに生い茂る林が風を防いでくれているおかげで水面が穏やかに保たれる湾であり、天然の良港になっている。
神奈川県により、台風の時などに漁船が退避するために使われる避難泊地に指定されている[2][3]。きわめて閑寂としており漁師の間では、いくつかの逸話も添えつつ「三浦一族の亡霊が彷徨っている」などとも語られていた。
1979年に定められたかながわの景勝50選の1つに選ばれている[4]。
湾名の由来は地名の油壺と同様、湾内が油を流したように静かなためとも、16世紀に新井城(三崎城とも)が落城した際に三浦氏の死体で水面に油が漂ったからともされる。
歴史
編集油壺湾の北側に伸びる網代崎には、かつて三浦氏の居城であった新井城(三崎城)があった。建物は失われてしまったが、曲輪や土塁がわずかに残り、歴史を偲ぶ案内板が立てられている。
第二次世界大戦中の1945年には、この臨海研究所を本部として横須賀鎮守府の第1特攻戦隊の基地が置かれ、第14回天隊などがいた。
ヨットハーバー
編集現在、この湾の奥まった場所にはヨットハーバーが整備されている。先述のように天然の良港で、台風などの時にもヨットが被害を受けにくい[5]。数ある日本のヨットハーバーの中でも歴史が古く、日本のセーリングヨット史を辿ると幾度も登場する湾である。ただし、湾は今でも湾をとりかこむ岬の林や道の狭さによって、外の視線からは守られていて人の出入りは少なく、ヨット関係者や付近の別荘などの利用者以外にとっては近づきがたい、ひっそりとした雰囲気を保っている。
なお湾に面してヨット整備に関して老舗的な会社が存在しており、周囲のハーバーからだけでなく、湘南や横浜あたりのヨットハーバーを係留地とするヨットの中にも整備・改造・艤装変更等のために海路ここにやってくるものがある。
観測、研究施設
編集湾には国土地理院の油壺験潮場があり、海面の水位を測定して土地の隆起・沈降や津波を解析している[1]。1894年(明治27年)に竣工した験潮場の旧建屋は2018年度土木学会選奨土木遺産に選ばれている[6][7]。
新井城跡付近の、油壺湾に面するあたりに東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所が設けられ、臨海生物の生態などを研究している[1]。
アクセス
編集ギャラリー
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手前が油壺湾の入り口。奥は諸磯湾。東京大学三崎臨海実験所付近から
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東京大学三崎臨海実験所付近から見た油壺湾
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湾奥から湾口方面を望む
脚注
編集- ^ a b c “コトバンク”. 朝日新聞社. 2019年6月15日閲覧。
- ^ “油壺湾 避難泊地”. 神奈川県. 2019年6月15日閲覧。
- ^ “台風に備え 油壺湾に160隻が避難”. 神奈川新聞. (2014年7月10日) 2019年6月15日閲覧。
- ^ a b “油壺湾”. みうら観光ガイド. 三浦市観光協会. 2019年6月15日閲覧。
- ^ 油壺湾の南に位置する諸磯湾にもヨットハーバーが整備されている。ただし諸磯湾のほうは直線的に海につながっており、油壺湾に比べると水面は動きやすく、風も強い傾向がある。
- ^ “油壺験潮場 “標高の基準”土木遺産に”. タウンニュース. (2018年10月5日) 2019年6月15日閲覧。
- ^ “油壺験潮場の旧建屋が「選奨土木遺産」に 三浦”. 神奈川新聞. (2018年10月6日) 2019年6月15日閲覧。
参考文献
編集- 『日本地名大辞典 14.神奈川県』 角川書店、1989年。
関連項目
編集- 京急油壺マリンパーク
- 諸磯埼灯台
- 小網代湾(こあじろわん) - 北隣の湾
- 諸磯湾(もろいそわん) - 南隣の湾