河鍋暁翠
河鍋 暁翠(かわなべ きょうすい、慶応3年12月10日〈1868年1月4日〉[1] - 昭和10年〈1935年〉5月7日)は、明治時代から昭和時代初期の日本画家、浮世絵師。
来歴
編集浮世絵師で狩野派の絵師であった河鍋暁斎の門人で、暁斎3番目の妻ちかとの間に生まれた長女。名はとよ、初め暁辰と号す。江戸生まれ。数え5歳の頃、父に「柿に鳩の図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)の手本を与えられ、日本画の手ほどきを受け始めた。暁翠はこの手本を生涯大事にしていたという。17歳の時には第2回内国絵画共進会に出品するまでの実力を備えていた。『河鍋暁斎絵日記』には彩色を手伝ったり、時に代稽古に出かける姿がしばしば描かれている。
その後も明治20年代にはいくつかの展覧会に出品し、その彩色を評価され、内国絵画共進会や内国勧業博覧会で入選する。明治21年(1888年)土佐派・住吉派の絵師山名貫義に弟子入り、父の狩野派とは異なる流派を学び、明治22年(1889年)22歳の時に父暁斎と死別している。明治24年(1891年)、美術展覧会に川鍋とよ として「佳人詠落花図」を出品し、褒状二等を受賞している。明治29年(1896年)日本美術協会会員にもなっている(亡くなるまで在籍)。明治35年(1902年)、東京女子美術学校(現・女子美術大学)開校の翌年、父の弟子だった島田友春の代わりに初の女性教授となる。この時の教え子に、山脇敏子がいる。この間、明治40年代までは錦絵や挿絵本も出版するなど、画家として幅広い活動を繰り広げていた。
明治37年(1904年)宮城県仙台市出身で慶應義塾・アメリカ スタンフォード大学で経済学を修めた[要出典]高平常吉と結婚。神田和泉町の借家から台東区上野池之端七間町に新居を構えた。明治43年(1910年)娘 よしの誕生以前に女子美術学校を退職する。大正4年(1915年)夫の常吉と別居、円満離婚。娘 よしを河鍋姓にし養育する。生来の控えめな性格も手伝ってか、展覧会活動等は少なくなり、皇室や良家の子女や趣味人に教える個人教授が、活動の主体となっていった。暁翠は盆石「湖月遠山流」家元という一面もあり、画家らしく白砂を染める「色砂」や砂を盆に張り付ける「留砂」に工夫をしたという。しかし晩年、家元株を有力な門弟3人に分け与えたという[2]。昭和10年(1935年)出稽古先で脳溢血となり、死去。享年68。戒名は大法院妙聞日豊大姉。谷中瑞輪寺塔中正行院に葬られる。
画風
編集暁翠は父の画風を受け継ぎながら美人画や能画を能くしたが、その作品は少ない。浮世絵研究者飯島虚心は「翁(暁斎)の筆と比べて殆ど異なる所なきが如し」「最も彩色に長ぜり」と評している(飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』)。作品としては「鐘馗」、「七福神辰年図」などが挙げられる。「七福神辰年図」は3枚続の絵で、大黒天が恵比寿、寿老人、おかめの前で辰の絵を描いている場面を描いている。また肉筆で「百福図」と題して多くのお多福の絵を描いている。「地獄太夫図」は和泉国堺の高須町の遊廓にいた遊女の地獄太夫を描いており、この地を訪れた一休和尚が「聞きしより見ておそろしき地獄哉」と詠みかけると、「活来る人もおちざらめやも」と付け句した才女であったといわれる。諸派を学んだ暁翠であるが、弟子の小熊忠一から何派を名乗ればいいかと尋ねられると、即座に「狩野派です」と答えたという。
作品
編集錦絵
編集- 「毘沙門天寅狩之図」 大判3枚続 河鍋暁斎記念美術館、山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵 明治22年(1889年) 武川清吉版
- 「女礼式歌合」 大判3枚続
- 「七福神辰年之図」 大判3枚続 プーシキン美術館所蔵 明治24年(1891年)
- 「巳年の福神遊」 大判3枚続 悳俊彦コレクション 明治25年(1892年) 武川清吉版
- 「五節句之内 皐月」 大判3枚続 悳俊彦コレクション 明治25年 武川卯之吉版 ※「花月」、「皐月」、「文月」、「菊月」の4点が知られる。
肉筆画
編集作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
地獄太夫図 | 絹本着色 | ニューオータニ美術館 | |||||
寛永時代美人図 | 絹本着色 | 1幅 | 119.3x50.8 | 河鍋暁斎記念美術館 | 大正5年(1916年)4月1日 | ||
不動明王図 | 絹本着色 | 1幅 | 139.2x52.2 | 河鍋暁斎記念美術館 | 大正12年(1923年)以前 | ||
紫式部・清少納言図 | 絹本着色 | 双幅 | 104.5x40.5(紫式部図) 104.1x40.2(清少納言図) |
河鍋暁斎記念美術館 | 制作年不詳 | 図様は『前賢故実』に倣う。 | |
天の岩戸 | 絹本着色 | 双幅 | 96.0x39.5(右幅) 105.0x40.0(左幅) |
河鍋暁斎記念美術館 | 暁斎の下絵あり | ||
百猩々 | 絹本着色 | 1幅 | 153.3x71.7 | 河鍋暁斎記念美術館 | |||
美女と鬼の相合い傘 | 絹本着色 | 104.8x35.8 | 河鍋暁斎記念美術館 | ||||
鶴を抱く福女図 | 絹本着色 | 河鍋暁斎記念美術館 | |||||
百福の宴 | 絹本着色 | 1幅 | 121.0x55.3 | 河鍋暁斎記念美術館 | 制作年不詳 | 款記「暁斎」 | 暁斎落款をもつが、作風などから暁翠の作品。 |
百福図 | 絹本着色 | 1幅 | 126.4x50.7 | 河鍋暁斎記念美術館 | 制作年不詳 | 無款 | |
猫を抱く美人 | 紙本淡彩 | 河鍋暁斎記念美術館 | |||||
鏡を持つ美女 | 紙本淡彩 | 河鍋暁斎記念美術館 | |||||
納涼美人 | 絹本着色 | 河鍋暁斎記念美術館 | |||||
八重桜と鳥 | 絹本着色 | 1幅 | 113.2x36.9 | 河鍋暁斎記念美術館 | 制作年不詳 | ||
日光写生 中禅寺湖の夏 | 紙本墨画(一部着色) | 河鍋暁斎記念美術館 | |||||
秋草と雀 | 板地着色 | 板絵 | 河鍋暁斎記念美術館 | ||||
雪の春日大社と鹿 | 絹本着色 | 色紙 | 河鍋暁斎記念美術館 | ||||
擣衣玉川図 | 絹本墨画 | 河鍋暁斎記念美術館 | 画稿 | ||||
三笠山 写生 | 紙本墨画(一部着色) | 画巻 | 河鍋暁斎記念美術館 | ||||
紫式部図 | 絹本着色 | 1幅 | 117.2x42.4 | 実践女子大学香雪記念資料館 | 款記「暁翠画」/「暁翠」朱文方印[3] | ||
文読む美人図 | 絹本着色 | 個人(日本国外) |
河鍋暁翠を題材とした作品
編集小説
編集脚注
編集出典
編集- ^ ジョサイア・コンドル 山口静一訳 『河鍋暁斎』 岩波文庫、p.278。
- ^ 『河鍋暁斎・暁翠伝 ―先駆の絵師の魂!父娘で挑んだ画の真髄―』p.176。
- ^ 山下裕二監修 仲町啓子監修・執筆 『特別展 上村松園 生誕140年記念 松園と華麗なる女性画家たち』 山種美術館、2015年4月18日、pp.80,123、ISBN 978-4-907492-05-2。
- ^ “《直木賞候補作インタビュー》「天才的な人物を家族に持った人にかねて関心があった」澤田瞳子がたどり着いた“絵師を描くことの向こう側””. 文春オンライン (2021年7月10日). 2021年9月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月5日閲覧。
- ^ 朝世, 瀧井. “「“何者にもならない”人を書きたい」新直木賞作家・澤田瞳子が〈時給940円のアルバイト〉を15年続ける理由”. 文春オンライン. 2021年7月19日閲覧。
- ^ “澤田瞳子さん「星落ちて、なお」インタビュー 河鍋暁斎の娘、画鬼の呪縛にあらがう姿 |好書好日”. 好書好日. 2021年7月19日閲覧。
参考文献
編集- 藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣 1946年 278頁 ※近代デジタルライブラリーに本文あり。
- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年
- 『開館30周年記念 河鍋暁斎記念美術館収蔵品目録』 財団法人 河鍋暁斎記念美術館、2008年5月6日
- 展覧会図録
- 『河鍋暁斎・暁翠展』 東武美術館 2000年6月1日-7月2日
- 河鍋楠美 『河鍋暁斎・暁翠伝 ―先駆の絵師の魂!父娘で挑んだ画の真髄―』 KADOKAWA、2018年3月28日、ISBN 978-4-04-400370-8
- 『ラスト・ウキヨエ 浮世絵を継ぐ者たち−悳俊彦コレクション』 太田記念美術館、2019年
外部リンク
編集- 河鍋暁斎記念美術館 - 暁斎の曾孫(暁斎の娘、暁翠の孫)の河鍋楠美が自宅を改築し運営しており、下絵も含め多くの作品が所蔵されている。
- ウィキメディア・コモンズには、河鍋暁翠に関するカテゴリがあります。