河野毅
河野 毅(こうの たけし、1891年(明治24年)8月25日[1] - 1946年(昭和21年)4月24日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
河野 毅 | |
---|---|
生誕 |
1891年8月25日 日本 山口県 |
死没 |
1946年4月24日(54歳没) フィリピン マニラ |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1911年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集1891年(明治24年)に山口県で生まれた[1]。陸軍士官学校第23期卒業[1]。1937年(昭和12年)11月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に独立守備歩兵第9大隊長に着任し[2]、ソ満国境の守備に任じた[3][4]。1938年(昭和13年)12月に歩兵第17連隊長(第8師団)に転じ[2]、ソ満東部国境で守備に任じた[4]。
1941年(昭和16年)8月25日に陸軍少将進級と同時に第7師団司令部附となり[1][2]、11月6日に第40歩兵団長(第11軍・第40師団)に就任し[1]、第二次長沙作戦、浙贛作戦などに参加[4]。1943年(昭和18年)4月に第11独立守備隊長(第14軍)に転じ[1]、セブ島に出征して飛行場建設とゲリラ討伐に任じた[5]。同年11月24日に第11独立守備隊が独立混成第31旅団に改編されると[1]、同旅団長に就任し[1]、されに独立混成第31旅団を基幹として第102師団(第35軍)が編成されると[1][5]、1944年(昭和19年)6月21日に同師団隷下の歩兵第77旅団長に就任し[5]、1945年(昭和20年)3月1日に陸軍中将に進級した[2]。同旅団はネグロス島バコロドで飛行場警備とゲリラ討伐に当たり[5]、3月29日に米軍が上陸すると飢餓状態の中で戦い[5]、9月4日に投降した[5]。
終戦後は戦犯として逮捕され[6]、カンルーバン収容所に収監された[6]。マニラ軍事法廷において、ゲリラ討伐での住民殺害や[6]、隷下のパラワン島守備隊が[6]、プエルト・プリンセサに収容されていた米軍捕虜150人を米軍上陸に際して殺害した容疑から[6]、絞首刑の判決が下され[6]、1946年(昭和21年)4月24日に執行された[1][2][6]。
遺詠は次のとおりであった。
「すでに早く 戦の庭に 死すべきを 生きて裁判に 散るぞ悲しき[6]」
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 伊藤禎 著『大東亜戦争 戦犯として処刑された陸軍将官36人列伝』展望社、2021年。ISBN 4885464056。