河村孝 (サッカー選手)

日本のサッカー選手

河村 孝(かわむら たかし、1968年6月20日 - )は、山口県阿武郡旭村(現萩市)出身の元サッカー選手(FW)、サッカー指導者(JFA公認B級コーチ)[3]

河村 孝
名前
愛称 ジャンボ[1]
カタカナ カワムラ タカシ
ラテン文字 KAWAMURA Takashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1968-06-20) 1968年6月20日(56歳)
出身地 山口県阿武郡旭村(現萩市
身長 186cm[2]
体重 80kg[2]
選手情報
ポジション FW
ユース
1984-1986 日本の旗 山口高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987-1992 日本の旗 マツダSC
1987-1992 日本の旗 マツダSC東洋
1992-1993 日本の旗 横浜フリューゲルス 0 (0)
1994 日本の旗 大塚製薬
1995 日本の旗 福岡ブルックス
通算 0 (0)
監督歴
2012 日本の旗 レノファ山口FC
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)・レノファ山口FCを運営する株式会社レノファ山口の代表取締役社長を務めた[4]

来歴

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山口県立山口高等学校出身[3][5]。高校時代は3年連続で全国高等学校サッカー選手権大会に出場、2年次の第63回大会ではベスト8入りした。

1987年、日本サッカーリーグ(JSL)のマツダSC(現サンフレッチェ広島)に入団する[3][5]。同期に森保一がいる。1989年マツダとプロ契約を結ぶ[3]。このころにマンチェスター・ユナイテッドのリザーブチームであるマンチェスター・ユナイテッドFC.リザーブへ留学経験がある。

1992年Jリーグが始まると横浜フリューゲルスへ移籍した[3][5]。長身をいかした空中戦の強さが特徴[6] であったが、Jリーグ公式戦の出場は無く、サテライトでのみプレーした。その後は大塚製薬サッカー部(現徳島ヴォルティス)、福岡ブルックス(現アビスパ福岡)でプレーした。不整脈を発症したことから1995年を以って引退した[5]

現役引退後、地元山口県に戻り1997年にFCレオーネ(現レオーネ山口)を設立する[3][5]。以降は同代表及びコーチとして活躍、教え子に田中陽子原川力がいる。2005年にレオーネおよびアディダスフットサルパーク山口を運営する(株)ヴィンツァーレを立ち上げている[3]

2012年、ゼネラルマネージャー (GM) の宮成隆からのオファーを受けて[4]、当時中国リーグ所属のレノファ山口FC監督に就任。日本フットボールリーグ (JFL) 昇格を目指した[5] ものの、同年度の中国リーグ4位、同年度の全社では2回戦敗退したことにより、JFL昇格はならなかった。GMの宮成の体調悪化もあり、監督を務める中で「(レノファが)フロントもあってないような感じで、クラブのフィロソフィーも感じられなかった」との思い[7]から、シーズン終了後同年度を持って監督を退任して宮成の後任のGMに就任した[8]。GM就任後はクラブ改革に手腕を発揮。2013年11月には運営組織の株式会社化を行い、株式会社レノファ山口の代表取締役社長に就任した[9]。2014年にはマツダでの同僚だった上野展裕を招聘し[10]、JFLからJ3・J2へのステップアップを経営面から支えた。

2022年1月15日付けで株式会社レノファ山口代表取締役社長を退任したことがクラブから発表された(後任に小山文彦[11]。同月末のJリーグ理事会を持ってJリーグ実行委員を退任[12]、代表取締役の任も解かれ顧問に就任するが、サガン鳥栖運営会社である株式会社サガン・ドリームスの内田弘会長(ベストアメニティ代表取締役会長)の誘いを受け、2022年4月23日付けでサガン・ドリームスの取締役に就任した[13][14]

2023年12月30日にFC刈谷の運営法人である三河ベイフットボールクラブ強化部長に転じ、翌年5月4日にゼネラルマネージャーに就任した[15]

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1987-88 マツダ JSL1部 0 0
1988-89 JSL2部
1989-90 18 0 0 0
1990-91 19 17 8 2 1
1991-92 3 0 0 0
1992 横浜F - J - 0 0 0 0 0 0
1993 0 0 0 0 0 0 0 0
1994 大塚 11 旧JFL -
1995 福岡B -
通算 日本 J 0 0 0 0 0 0 0 0
日本 JSL1部 3 0
日本 JSL2部
日本 旧JFL
総通算

脚注

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  1. ^ 木村元彦 (2015年12月27日). “【育将・今西和男】上野展裕「今西―オフト体制に憧れていた」”. Sportiva. 集英社. 2015年12月28日閲覧。
  2. ^ a b 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』p103
  3. ^ a b c d e f g 2008年06月22日出演:河村孝さん”. YASUBE PRESENTS THE mouVment. エフエム山口 (2008年6月22日). 2012年12月6日閲覧。
  4. ^ a b メモリアルブック 2015, p. 17.
  5. ^ a b c d e f JFL昇格かけて改革/河村孝さん”. 朝日新聞 (2012年2月6日). 2012年12月6日閲覧。
  6. ^ 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』p49
  7. ^ メモリアルブック 2015, p. 18.
  8. ^ 河村孝 GM就任のお知らせ”. レノファ山口FC (2012年11月19日). 2012年12月6日閲覧。
  9. ^ 「レノファ山口FC」運営会社変更のお知らせ”. レノファ山口FC (2013年11月5日). 2013年11月6日閲覧。
  10. ^ メモリアルブック 2015, p. 19.
  11. ^ 株式会社レノファ山口代表取締役社長 交代について』(プレスリリース)レノファ山口FC、2022年1月15日https://www.renofa.com/archives/88172/2022年1月15日閲覧 
  12. ^ 実行委員選任について(山口)』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2021年1月31日https://www.jleague.jp/release/実行委員選任について(山口)/2020年2月7日閲覧 
  13. ^ 取締役就任のお知らせ』(プレスリリース)サガン鳥栖、2022年4月23日https://www.sagan-tosu.net/news/p/6205/2022年4月23日閲覧 
  14. ^ 株式会社レノファ山口 前代表取締役社長 河村孝氏 株式会社サガン・ドリームス取締役就任について』(プレスリリース)レノファ山口FC、2022年4月23日https://www.renofa.com/archives/93114/2022年4月23日閲覧 
  15. ^ 河村 孝 GM就任のお知らせ』(プレスリリース)FC刈谷、2024年5月4日https://fckariya.jp/news/9832024年9月12日閲覧 

参考資料

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  • 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
  • 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
  • レノファ山口FC J3優勝&J2昇格記念 公式メモリアルブック. レノファ山口FC. (2015-12-28). p. 17-20. ISBN 978-4-908199-05-9 

関連項目

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外部リンク

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