河合吉統
河合 吉統(かわい よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏の家臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 大永元年(1521年) |
死没 | 天正元年8月14日(1573年9月10日) |
別名 | 通称:五郎兵衛尉 |
官位 | 安芸守 |
主君 | 朝倉義景 |
氏族 | 河合氏 |
父母 | 父:河合久徳? |
子 | 女(鳥居与七郎室) |
略歴
編集大永元年(1521年) 、誕生。河合氏の出自は不明だが、大永2年(1522年)の連署状、享禄元年(1528年)の「朝倉氏府中奉行人連署状」などに河合久徳の名が見え、彼が吉統の祖父か父と推測される。1470年には朝倉孝景が日野川の合戦で斯波方を追い、河合安芸守宗清が杣山城に入城している。
内政手腕に優れ、当初は朝倉義景の奏者として活動し、天文19年(1550年)には奉行衆に任命され、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)頃まで、朝倉家家臣団最高位にあり、「一乗谷奉行人」と称され行政全般に関与した。奉行職の任務だけではなく弘治元年(1566年)には大野郡や加賀国への出陣記録が残り、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも2000余騎を率いて先鋒として参陣している。以後も度々出陣記録が残るが、天正元年(1573年)織田軍との刀禰坂の戦いで戦死した[1]。