河上哲太
河上 哲太(かわかみ てつた、1881年(明治14年)10月13日[1] – 1952年(昭和27年)11月17日[2])は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。
経歴
編集愛媛県周桑郡国安村(現在の西条市)出身。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。卒業後は、国民新聞社に入社し、経済記者として活動。経済部長に昇った。
1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。9回連続当選を果たした。その間、加藤高明内閣で文部参与官に就任し、その他に政友会総務を務めた。
戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となる[3]。1951年(昭和26年)、追放解除となるが[4]、翌1952年(昭和27年)11月17日死去。享年72。墓所は菩提寺である、愛媛県西条市新市、臨済宗東福寺派長覚寺。不輕院浩州玄養大居士。
脚注
編集参考文献
編集- 『御大典記念 昭和之日本』東京毎夕新聞社、1929年。
- 『衆議院要覧(乙) 昭和十七年十一月』衆議院事務局、1942年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。