池田長政 (片桐池田家)
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。片桐池田家初代。池田恒興の四男。片桐俊元(-1597)の養子。河内守。備前下津井領主3万2000石
池田 長政(いけだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。片桐池田家初代。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正3年(1575年) |
死没 | 慶長12年7月20日(1607年9月11日) |
別名 | 橘左衛門(通称)、片桐長政 |
墓所 | 岡山県赤磐市の茶臼山 |
官位 | 河内守 |
主君 | 池田輝政 |
藩 | 播磨姫路藩 |
氏族 | 池田氏、片桐氏 |
父母 |
池田恒興、善応院 片桐俊元 |
兄弟 | 元助、せん、輝政、長吉、長政、若政所、天球院、浅野幸長正室、織田勝長正室 |
妻 | 加藤嘉明次女 |
子 | 長明、片桐采女室、池田長吉養女 |
生涯
編集天正3年(1575年)、池田恒興の四男として尾張国犬山に誕生した。幼少時に片桐俊元の養子となり、慶長2年(1597年)に俊元が死去すると、家督と三河国新庄7000石の所領を継いだ。
『池田家履歴略記』によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄・輝政と共に東軍に与して織田秀信の籠る岐阜城攻めで軍功を挙げ、本戦にも参戦した。この功により、戦後に1万5000石を加増され2万2000石となり、播磨国赤穂城主に任じられたが、一説には東西どちらが勝っても池田氏が存続できるように、兄の命令で西軍に与していたともいわれる。
その後、さらに1万石の加増を受け、最終的に備前国下津井3万2000石の領主となる(1603年)。江戸城普請や駿府城普請でも功績を挙げた。
慶長12年(1607年)7月20日、伊勢国庄野庄にて死去した。享年33。家督は子の長明が継いだ。長政の家系は輝政の孫・池田光政から始まる岡山藩の家老(片桐池田家)として明治時代まで存続した。