池田 末男(いけだ すえお、1900年(明治33年)12月21日 - 1945年(昭和20年)8月18日)は、日本陸軍軍人陸士34期

池田 末男
生誕 1900年12月21日
日本の旗 日本 愛知県豊橋市
死没 (1945-08-18) 1945年8月18日(44歳没)
日本の旗 日本 北海道占守郡 占守島
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1922 - 1945
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

太平洋戦争終戦3日後[1]1945年(昭和20年)8月18日 午前1時30分頃、千島列島(日本領)南樺太(日本領)の占領を図る赤軍が、占守島(千島列島の北端)に侵攻してきた[2][3]占守島の戦い)。

池田は戦車第11連隊を陣頭指揮して赤軍を迎え撃ち、8月18日午前に戦死した(満44歳没)。戦死時の階級は陸軍大佐、戦死により同日付で陸軍少将に進級。

占守島の戦いまで

編集

陸軍騎兵将校となる

編集

愛知県豊橋市向山町(現)で出生[1]。陸軍憲兵少佐・池田筆吉の五男。兄の池田廉二(陸士23期)は陸軍中将。

愛知県豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)、陸軍中央幼年学校予科東京陸軍幼年学校に相当)陸軍中央幼年学校本科(後の陸軍士官学校予科、陸軍予科士官学校を経て、陸軍士官学校に入校[4]。大正11年7月28日に卒業し(34期)、陸軍騎兵将校となった。騎兵連隊の中隊長を務めた後は教育畑を転々とし、1941年昭和16年)11月、満洲公主嶺陸軍戦車学校の教官に着任。翌年11月、四平に陸軍戦車学校が移転したのち、1944年(昭和19年)7月15日に陸軍戦車学校 校長代理。

戦車第11連隊長に着任

編集

昭和19年12月、戦車第11連隊長第5方面軍 第91師団隷下)に発令された[5]。戦車第11連隊は占守島千島列島北端)に所在していた[5]。敵潜水艦の跳梁により、満洲から占守島への赴任には日数を要した[5]1945年(昭和20年)1月22日、幌筵島の柏原港に到着して第91師団長 堤不夾貴中将に伺候し、直ちに占守島の長崎に渡り、連隊長代理の池田吉四郎少佐らに出迎えられて、千歳台の連隊本部に入った[5]。1月24日に布達式[5]

占守島の戦い:四嶺山の戦闘

編集

戦車第11連隊の概況

編集

昭和20年(1945年)8月時点で、戦車第11連隊は人員764名で、6個戦車中隊と1個整備中隊を有していた[6][7]。装備する戦車は、一式中戦車47㎜対戦車砲)19両、九七式中戦車57㎜砲)20両、九五式軽戦車(37㎜砲)25両、計64両であった[7][8][注釈 1]

ポツダム宣言を受諾した日本への攻撃を続けるソ連

編集

昭和20年(1945年)8月7日に、翌年の昭和21年(1946年)4月まで有効だった[10]日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、圧倒的な兵力で満洲朝鮮北部の占領を確実にしていたソ連は、さらなる戦果(領土・資産)を確保すべく、渡洋侵攻による千島列島南樺太(日本領)の占領を企図していた。

日本が連合国ポツダム宣言受諾を通告した後に、ソ連政府が「ソ連極東軍は日本への攻撃を継続する」旨を、アメリカ政府・イギリス政府・中華民国政府に伝えた事実がある(日本の降伏に関するソ連軍参謀本部の布告、ゲオルギー・ジューコフ元帥が署名)[11]

出撃

編集

8月15日の玉音放送後、戦車第11連隊は武装解除を始めていた。しかし、8月18日01:30過ぎに、ソ連領カムチャッカ半島に面した砂浜である国端崎(占守島北端、かつ千島列島北端)に、ソ連軍部隊(1個師団〈8363名〉・火砲218門[12])が上陸を開始した[13]

国端崎には、アメリカ海軍戦艦による艦砲射撃を想定した[14]、岩盤を穿った堅固な地下陣地があり、独立歩兵第282大隊 第3中隊長・黒木松雄中尉が指揮する守備隊(歩兵1個中隊・火砲12門〈速射砲3門・大隊砲3門・臼砲4門・野砲2門〉)がソ連軍部隊に少なからぬ損害を与えたが、ソ連軍先遣隊は8月18日05:00までに上陸を終え、占守島内陸部に進んだ[13]

8月18日02:30、戦車第11連隊本部(千歳橋)において、池田は第91師団長 堤不夾貴中将の命令

「戦車第11連隊長は、師団工兵隊のうち2個中隊を併せ指揮して国端崎方面に急進、敵を撃滅すべし(要約)」

を受領した[15]。池田はただちに大和橋の第4中隊に索敵を命じ、本部および隷下の各中隊に、戦闘準備と占守島中央部の天神山への集結を命じた。

訓示

編集

05:00、池田は天神山に進出した[16]。戦車第11連隊の主力も天神山に集結しつつあった[16]。一方、占守島中部・四嶺山の陣地に拠る、占守島北部を守る独立歩兵第282大隊(大隊長:村上則重少佐。村上大隊)主力は、優勢なソ連軍部隊に包囲されて全滅に瀕していた[6][13][16]。しかし、武装解除を始めた後の戦闘準備には時間を要し、05:00時点で池田が戦闘に投入できる戦車は、25両(戦車第11連隊の全戦車の4割程度)に留まり、戦車を支援する歩兵・工兵はゼロであり、「歩兵・工兵の支援を受けない、戦車のみでの戦闘」しかできない状況であった[16]

戦車第11連隊の中隊長の一人伊藤力雄と同期で自身も一時、11連隊の中隊長であったこともある潮田健二によれば、「歩兵・工兵の支援を受けない、戦車のみでの戦闘」は、敵の対戦車兵器の脅威を排除できないため著しく不利となること、ソ連軍は有力な対戦車兵器を有していることは、池田も分かっていたという[17][注釈 2][注釈 3]。ただし、当時師団作戦参謀の水津満や11連隊の小隊長の一人であった内田弘少尉の証言からは、相手がソ連軍と分かったのは戦闘後かなり時間が経ってからのことで、霧の中の戦闘でもあり、当初敵は正体不明としながらも米軍と思っていたことが窺える。内田少尉によれば、なんといっても撃滅せよとの命令であったこと、敵は歩兵ばかりで一ひねり出来るとの判断があったことを挙げ、池田に死所を得たという気があっただろうとしながらもそのために部下を道連れに無謀に突っ込んでいったという見方に反対している[18]

通常、上位の者の戦車から優先して整備していくことになる。その結果、連隊長や中隊長の将校車が先に戦場に揃い、彼らから桶狭間的に突っこんでいき、戦死することになる。

意を決した池田は、麾下将兵に下記のように訓示した[19]

われわれは大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆に敢えて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手を上げよ。 — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、『戦車第十一聯隊史』より、[19]

全員がこぞって手を挙げて応え、池田は落涙を禁じ得なかったという[19]。一方で、戦車兵らは下士官とはいっても下は16歳の者もいて多くは年若く、終戦と聞いて母に会えると喜ぶ者もいるほどでまだ子どものように感じられ、このように言われて、思わず手を挙げたのは分かると評する古参の将兵の声もある[18]

05:30、池田は麾下部隊を率いて天神山を出撃し、村上大隊が死闘を続ける四嶺山に急行した[19]。工兵1個中隊が後を追った。

最期の日の池田の姿

編集

突撃

編集

戦車第11連隊 第3中隊 第3小隊長[19]として四嶺山の戦闘に参加した 内田弘 少尉[20]は、戦死を免れた数少ない将校の一人であり、停戦後のシベリア抑留にも耐えて21世紀まで生き抜き、大野芳(占守島の戦いから65年後の2010年に『8月17日、ソ連軍上陸す』〈中公文庫〉を上梓した)のインタビューに応じて下記のように語ったという[21]

おそらく本部をでられるときは、軍服だったでしょう。しかし突撃をかけられたときは、まっ白のシャツに日の丸のハチマキ姿でした。これも想像ですが、敵に階級章を見られないためだったかもしれません。もう連隊長は、覚悟しておられましたから。 — 戦車第11連隊 第3中隊 第3小隊長 陸軍少尉 内田弘、[21]

ただし、この攻撃の際、池田は上半身裸で指揮をとっていたとの話が伝わる。内田少尉自身が、より当時に近い1968年頃の読売新聞の取材に対しては、池田連隊長が上半身裸であったことを語っている[18]。このとき、池田は砲塔に袴乗(またがること。視点を少しでも高くしようとしたと思われる。)し、戦闘開始後すぐに銃撃を受けて亡くなった丹生少佐の死体を砲塔に括りつけていた(遺体を戦場に放置し、後で発見困難になり回収できなくなることを恐れたと考えられる。なお、『昭和史の天皇』からは、戦車内はすでに満員で、皆が戦場にいち早く駆け付けようとして丹生らが同乗したことが察知される。)という[18]。この話は、戦後シベリアから復員してきた部下らから樋口北方軍司令官も聞いている[22]。一方で、池田の元部下が戦後に画家に描かせた絵では、突撃の号令時には上半身は肩近くまで腕まくりしたシャツ姿で描かれている[23]。途中からシャツを脱ぎ捨てたのであろうか。

連隊長車の砲塔から身を乗り出し、日章旗を振って陣頭指揮

編集

夏季の千島列島の例に漏れず、昭和20年8月18日の占守島は、夏季の千島列島につきものである海霧に覆われており、占守島北岸に近い四嶺山では特に海霧が濃く、視界が僅か50メートル程度になることもあった[17]

第2回攻撃(後述)時の池田を望見した他部隊兵卒の証言によると、海霧が立ち込めて視界の悪い戦場で、池田は先頭を走る連隊長車の砲塔から敵弾を怖れずに上半身を乗り出し、右手に日章旗・左手に抜身の軍刀をそれぞれかざし、色鮮やかで視認性の高い日章旗を振ることで、後続する車列を自在に操っていたという[24]

攻撃(第1回)

編集

06:20、池田は四嶺山の南に位置する高地に到着した[25]。ここで第3中隊と第4中隊が合流し、池田が戦闘に投入できる戦車は30数両に増えた[25]

池田は、四嶺山に健在の村上大隊を迂回して戦線背後に突出しているソ連軍部隊を発見し、下記のように判断した[25]

  • 歩兵1個中隊の小兵力である。
  • 対戦車砲を有さない。
  • 火砲は、対戦車戦闘に不適な迫撃砲のみ。
  • 四嶺山の村上大隊を攻囲している敵主力部隊から孤立しており、各個撃破できる公算大。

戦機到来と見た池田は、第91師団長 堤不夾貴中将、歩兵第73旅団長 杉野巌少将[注釈 4]無線電信で突入する旨の電文を送り、歩兵の援護なく、代わりにあり合わせの工兵1個中隊の援護のみでソ連軍部隊を襲撃した[25][注釈 5]

池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。0650[注釈 6]、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る。 — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、[25]

戦車第11連隊の攻撃を受けたソ連軍歩兵1個中隊は、四嶺山の村上大隊を攻囲しているソ連軍主力部隊に向け退却し、追撃する戦車第11連隊は、続いてソ連軍主力部隊の背後を襲った[25][注釈 7]

正面の村上大隊と背面の戦車第11連隊に挟撃され、にわかに攻守が逆転して浮足立つソ連軍主力部隊を、村上大隊陣地の高射砲(2門[27])が水平射撃で薙ぎ倒した[25][注釈 8]

さらに、増援の独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二 少佐[29]陸軍少尉候補者9期[29]占守島の戦いで重傷を負った[30]竹下大隊)の各隊が四嶺山に到着して戦闘加入し、耐えかねたソ連軍主力部隊は、四嶺山から、上陸地点の竹田浜方面に敗走した[25]

池田と共に連隊長車に跨乗していた指揮班長の戦車第11連隊附[注釈 9] 丹生勝丈 少佐陸士53期)は、戦闘開始後まもなく連隊長車の砲塔上で敵弾により戦死した[25]

攻撃(第2回)、戦死

編集

07:25、ソ連軍主力部隊を四嶺山から駆逐した戦車第11連隊は、四嶺山の山頂に再集結した[25]

四嶺山の山頂から海霧を通して敵情を観察していた池田は、四嶺山の山頂から北東500メートルの山麓に集結するソ連軍主力部隊(歩兵)を発見した[25]。なお、戦車は前下方への視界が皆無であるため、山肌のような不整地に多い前下方の障害物(小山や空隙など)を目視できず、「山肌を下りながらの戦闘」は苦手である[25]

07:50、池田は下記のように下令し、四嶺山を駆け下りて山麓のソ連軍主力部隊を襲撃した[25]

機を失せず敵を急襲し一拠〔ママ〕に敵を圧倒して水際に撃滅せん。 — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、『戦車第十一聯隊史』より、[25]

出撃時の池田の言葉が記録されている。

丹生、貴様も戦場に連れてってやるからなっ! 攻撃前進! — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、[25]

再び先頭を走る連隊長車には、第1回攻撃で戦死した、戦車第11連隊附 丹生勝丈少佐の遺体が括り付けられていた[18][25]

戦車第11連隊の第2回攻撃について、国端崎陣地を死守していた 片桐茂 中尉(出典〈[27]〉には官姓名のみ記載)が下記のように記している。

野砲の第一弾発射を合図に浅田班もこれに合わせて竹田浜の敵に集中射撃、敵のひるみに乗じ一気に突入、切込みを敢行して竹田沢〔ママ〕に蹴散らす。陣地に帰ると敵は国端崎の崖づたいに灯台付近を占領。止むなく頼みの野砲を砲座に収納、連絡壕沿いに六度切込みを敢行。幸いに戦死者なし。以後膠着状態を辿り、戦闘は連絡壕の確保へと移行していった。八時近く、四嶺山より友軍戦車隊が我陣地方面に進撃を開始す。日章旗を打ち振り、日の丸の鉢巻きも凛々しく、今救助に駆けつけるぞとばかり。沈滞した士気がまたもりあがる。 — 陸軍中尉 片桐茂、[25]

四嶺山から国端崎方面に追い落とされたソ連軍主力部隊であるが、対戦車兵器対戦車砲4門・対戦車ライフル約100挺、対戦車手投黄燐弾など)を次々に陸揚げして、戦車第11連隊への迎撃態勢を整えていた[31]

第2回攻撃において、池田は被弾炎上する連隊長車と共に戦死したが(昭和20年9月中旬以降に実施された遺体収容作業で、焼けただれた連隊長車、池田の遺体が発見された。→「#炎上する連隊長車の中、命尽きるまで戦った池田と部下」)、連隊長車が炎上した瞬間を目撃した者は存在せず、池田が戦死した時刻は不明である[24]。44歳没[32]

部下らの戦闘継続

編集

その後も、第11連隊の奮戦は続き、中隊長らにも戦死者が続出しながらも、ソ連軍に多大な被害を与えた[18]。その後、戦列が乱れたため、いったん四嶺山南側に終結し直し、このとき31両が集まったという[18]。日本側の証言にも、午後1時頃ではないかとするが、池田連隊長の戦死した四嶺山北側がソ連兵ばかりになっていたことを伝えるものがある。

しかし、隊列を立て直した戦車隊は3回目の突撃を敢行、多数の犠牲者を出しながらも、四嶺山北側の日本軍自身が対戦車用に掘った壕で止まるまで進み、四嶺山北側からもソ連兵を駆逐する[18]。この辺りの流れは、『戦史叢書』の伝えるソ連側戦史資料と概ね合致する[33]。ただし、当時の関係者に広く取材したと主張する潮田健二は、いったん四嶺山を奪った後は、南側に引揚げたことはあるものの四嶺山をソ連軍に渡したことはないとする[11]

内田少尉によれば、小隊長の中では彼が先任将校であったため、事実上指揮をとっていた。その後、最先任者[注釈 10]となった第4中隊長 伊藤力雄[注釈 11]大尉陸士55期)が合流、戦車第11連隊の指揮権を継承し、10:00過ぎに同連隊の残存戦車を四嶺山の南東麓に集め、国端崎方面のソ連軍主力部隊との対峙態勢に入ったともされる[11]。潮田健二は、伊藤大尉はいち早く戦場に出向いたものの攻撃を受けて擱座、占守街道東側に退いていたとする[11]。なお、伊藤大尉の中隊は足の速い軽戦車が多く、もともと偵察中隊だったとする主張もある。やがて霧が薄れ、ソ連機が飛来、空襲を行うようになる。内田少尉によれば、対空戦闘に入るため戦車隊は四嶺山南側に退いたとし、伊藤大尉の戦車は整備に手間取り、この頃遅れて合流したとする[18]。大野芳は、戦車隊が対空戦闘に入ったのは伊藤大尉の指揮だとの証言を、内田から聞いたとしている[35]

戦いの結末

編集

日本軍側では自衛戦闘も18日午後4時までとされていたため、最初の停戦交渉の軍使が白旗を掲げてソ連軍側陣地に向かう。出発はかなり遅れて、当日午後3時頃だったとされる[18]。交渉は手間取り、その間も散発的な戦闘は続くが、19日軍使とソ連側で一応の交渉はなり、さらに多少の紆余曲折はあったもの21日に停戦の正式調印、23日日本軍の武装解除に至る。

交戦中は砲撃戦もあったことであり、日本軍側が押さえていた街道や国端崎の砲台周辺では戦場整理と呼ばれる遺体・負傷者の回収は早くから行われていたようだが、日ソ両軍が対峙し戦力の真空地帯のようになっていた四嶺山での戦場整理はソ連軍の許可がなかなか下りず、最初の戦場整理が認められたのは9月中旬以降だったという。それも日本兵の死体も多かったため兵士らの憤激を煽らないよう最初の戦場整理は将校のみで行ったという。

この9月中旬以降の激戦地であった四嶺山で行われた戦場整理で池田大佐の死体が発見される。女体山と六九高地の中間地点で被弾炎上・擱座している連隊長車が発見された[36]

命尽きるまで戦っていた池田と部下

編集

連隊長車は対戦車ライフルが受けて穴が開き、誘爆を起こして燃えていた。中から、壁面にもたれて立ったまま息絶えていた池田の半焼死体が発見されたが、戦車第11連隊軍医長 木下不二夫 軍医少佐が「連隊長なら奥歯に金冠がかぶせてある」[37]と指摘したことで池田の遺体であることが確認できた[37]

戦車第11連隊 第3中隊 第3小隊長[19]として四嶺山の戦闘を生き残り、遺体収容作業に参加して、連隊長車の中の池田の遺体を実見した 内田弘 少尉[20]は、大野芳(占守島の戦いから65年後の2010年に『8月17日、ソ連軍上陸す』〈中公文庫〉を上梓した)に宛てた手紙に下記のように記している。

鬼神の如き姿を凝視して思はず愕然とした。 — 戦車第11連隊 第3中隊 第3小隊長 陸軍少尉 内田弘、[37]

また、連隊長車の操縦手である 高橋厚 准尉 の背中は焼け崩れており、炎の中で、命尽きるまで転把(ハンドル)を離さずに操縦を続けていたことがうかがえた[37]

「混戦乱闘の模様は、ここに戦った者にしか判らない」

編集

戦車第11連隊の指揮権を継承した伊藤力雄大尉は、占守島の戦いの終結まで無事であり、停戦後に同連隊の生存将兵と共にソ連によってシベリアに抑留された[34]。昭和23年(1948年)頃にシベリアから日本への生還を果たしたものの、既に体を蝕まれており、再起することなく5年後の昭和28年(1953年)3月に病没した[34]。一時指揮を担当する形となった内田弘少尉は、その後も読売新聞や大野芳の取材に回答している。

伊藤力雄大尉・船水達夫大尉(第1中隊長、戦死)両名の陸士55期同期生で、占守島の戦い当時はいなかったものの自身も太平洋戦争前期に第11戦車連隊の中隊長を務めた潮田健二[注釈 12]が、戦後に生存者からの直接聴取と一次史料検討をもとにしたとする『み霊よ安かれ―船水達夫君・伊藤力雄君のこと:戦車第11聯隊の最期』を、雑誌『偕行』(昭和48年3月号-同年6月号)[注釈 13]に連載し、戦車第11連隊の奮戦を後世に伝える貴重な記録となっている。しかし潮田にも、生前の伊藤大尉から占守島の戦いについて聴取する機会はなかった[34]

なお、占守島の戦いでは、ソ連軍の死傷者数は日本軍推定の多いものでも3千名とされている。第一砲兵隊長の加瀬谷は、上陸用舟艇を13隻撃沈したことから、泳いだ者3千人、戦死者2千人ではないかという数字を出している[18]。これが、潮田健二の説では、上陸後の戦いのみで、死傷者3千人、遺棄死体2千人となっている[11]

四嶺山の戦闘について、潮田は下記のように述べている。

混戦乱闘の模様は、ここに戦った者にしか判らない。ただでさえ、視界の悪い戦車に加えて、当日は、北千島の夏に、しばしば発生する霧に覆われ、海岸に近づくに従って、その度はひどく、視界は風のまにまに、五〇米から時として一五〇〇米ぐらいであったという。 — 潮田健二(陸士55期、元・帝国陸軍戦車将校)、[17]

戦車第11連隊の損害

編集

戦車第11連隊の主な将校の生死の状況は以下の通り[8][注釈 14]

※ 特記ある場合を除く出典:[8]
連隊長 池田 末男 大佐陸士34期) 戦死。
連隊附[注釈 9](指揮班長[21])丹生 勝丈[7] 少佐陸士53期[7]) 戦死。
連隊附(通信隊長[40])佐藤三男[40] 大尉(陸士56期) 戦死。
連隊附(本部副官[40])緒方静夫[40] 大尉(陸士56期) 戦死。
連隊附 吉田 中尉(陸士57期) 戦死。
第1中隊長 船水 達夫[34] 大尉陸士55期) 戦死。
第2中隊長 宮家 儀[40] 大尉(陸士56期) 戦死。
第3中隊長 藤井 大尉(陸士54期) 戦死。
第4中隊長 伊藤 力雄[34][注釈 11] 大尉(陸士55期)合流後、最先任者[注釈 10]として戦車第11連隊の指揮権を継承[7]
第5中隊長 古沢 薫中尉甲種幹部候補生6期[注釈 15]) 戦死。 内田少尉によれば、戦車整備が手間取り、遅れて戦場に到着、停戦交渉が進むのを待つ中、当日午後8時頃、戦闘に参加出来なかったことが申し訳ないと一人で軍刀を持ってソ連軍側に切り込みに行き、戻って来なかったという[18]。篠田中尉の手記によれば、第2回攻撃のさなかと思われるが、古沢は歩いてやってきて、さらに連隊長に連絡をとるために霧の中に入っていき帰って来なかったという[24](霧のために篠田中尉と再合流できなかっただけで、内田・篠田の証言ともに正しい可能性がある。)。
第6中隊長 小宮要[40] 大尉(陸士56期)[40]
整備中隊長 高石長四郎[21] 大尉〈陸軍少尉候補者[注釈 16]〉※ 池田の命により連隊本部で残留隊長を務め、戦闘に参加しなかった[21]
各中隊の小隊長たる将校(例:第3中隊 小島中尉)については、管見の範囲では詳細が判明しない。また他に、指揮権を有しない各部将校(例:軍医長 木下不二夫 軍医少佐)がいる。

約4時間の激戦により、同連隊の戦死者は97名に上り[41]、戦車27両を失った[7]

戦没後

編集

11年後に確認された少将進級

編集

秦 2005, p. 15, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:池田末男」には下記のように記載されている。

20・8 占守島で戦死・少将進級 — 太字は引用者が付加。

一方で、『偕行』(昭和31年〈1956年〉11月号)[注釈 13]には、陸士34期同期会幹事が下記のように記している。

終戦直後千島にて壮烈な戦死を遂げられし池田末男君は、先般紆余曲折を経て元少将たるを確認せられし由承りました。御遺族も御安心のことと存じますが、われわれもまた遥かに君の英霊に本件をご報告申上げる次第です。 — 太字は引用者が付加、「花だより:34期」、[42]

本来ならば戦死(昭和20年8月18日)により行われるはずの池田の少将進級(同日付)であるが、その辞令の発令が正式に完了していたのか長らく確認できていなかったが、陸士34期同期生らの尽力により、11年後の昭和31年にようやく確認できたことが分る。

戦車第11連隊将兵の遺骨

編集

シベリア抑留を潜り抜けた遺骨

編集

占守島の戦いが終結した後、激戦地となった四嶺山で回収された、池田をはじめとする戦車第11連隊将兵97名の遺骨は、同連隊の将校たちによって保全され、シベリア抑留を潜り抜けて日本に持ち帰られ、舞鶴港厚生省に引き渡された[41][43]

池田の遺品、戦車第11連隊将兵の慰霊碑

編集

戦後は、池田の遺族が、池田の遺品(池田の肖像写真、池田の公用名刺、戦車第11連隊将兵が撮影した敗戦前の占守島の写真15葉、など約300点)を保管し続けた[44]

占守島の戦いで斃れた、池田を初めとする戦車第11連隊将兵の三十三回忌を迎えた昭和52年(1977年)、池田の出身地である愛知県豊橋市の池田家墓所に、池田の長女が戦車第11連隊将兵の慰霊碑を建立した[45]。高さ60センチメートル x 幅100センチメートルの慰霊碑には、正面に縦書きで「戦車第十一聯隊/将兵/眠る」[46]と刻まれ、裏面には、「戦車第十一聯隊将兵は…」で始まる、池田が発した訣別電[注釈 17](宛:第91師団堤不夾貴中将・歩兵第73旅団長 杉野巌少将、昭和20年8月18日 06時50分付[16][25])が刻まれている[46][47][注釈 5]

陸上自衛隊第7師団への移管

編集

令和2年(2020年)、豊橋市で池田の遺品の保管・戦車第11連隊将兵慰霊碑の管理にあたっていた池田の長男が死去した[44]。その後、遺品と慰霊碑は、陸上自衛隊第7師団北海道千歳市東千歳駐屯地)に移管されることとなった[44]。遺品と慰霊碑の将来を憂う池田の遺族の、第7師団司令部への申し出による措置であった[44]

令和5年(2023年)、池田の遺品は第7師団史料館(東千歳駐屯地)に収蔵され、戦車第11連隊将兵慰霊碑は第7師団史料館の中庭に移設された[44][48]。第7師団史料館は、同年8月に、新たに収蔵した池田の遺品を展示に加えた[49][48]。同年8月3日、第7師団司令部は、整備が完了した戦車第11連隊将兵慰霊碑を報道陣に公開した[48]。には、占守島の戦いで斃れた、池田を初めとする帝国陸軍戦車第11連隊将兵の慰霊碑が中庭に設置され、池田の遺品が収蔵・展示されている。

第7師団史料館(平日の午前9時から午後4時まで開館)を見学するには、見学希望日の2週間前までに、第7師団司令部に電話で申し込む必要がある[49]。電話番号は、第7師団公式サイト(外部リンク)を参照。見学は無料[49]

陸上自衛隊による顕彰

編集

陸上自衛隊 第11旅団 第11戦車隊

編集

陸上自衛隊第11旅団北海道札幌市真駒内駐屯地)隷下の機甲部隊である第11戦車隊(北海道恵庭市北恵庭駐屯地)は、池田が指揮した帝国陸軍戦車第11連隊の隊号「11」と愛称「士魂」を引き継ぐことで、戦車第11連隊の奮戦を顕彰している。

陸上自衛隊 第7師団 第11普通科連隊

編集

陸上自衛隊第7師団(北海道千歳市東千歳駐屯地)は、帝国陸軍ソ連軍の侵攻を跳ね返した占守島の戦いを語り継いでいる[2][45][46]。第7師団隷下の普通科連隊歩兵連隊)である第11普通科連隊(同じく東千歳駐屯地)は、第11旅団第11戦車隊と同様に、戦車第11連隊の奮戦を顕彰して、隊号「11」と愛称「士魂」を引き継いでいる[46]

池田の遺品、戦車第11連隊将兵慰霊碑が第7師団に移管された令和5年、第11普通科連隊は、散華した将兵の祥月命日である8月18日に慰霊祭を挙行した[46]

年譜

編集
  • 大正11年7月28日:陸軍士官学校卒業(第34期)
  • 大正11年10月25日:任 陸軍騎兵少尉・騎兵第25聯隊附
  • 大正14年10月26日:陸軍騎兵中尉
  • 昭和7年8月8日:陸軍騎兵大尉・騎兵第27聯隊中隊長
  • 昭和10年12月:陸軍士官学校教官
  • 昭和11年8月1日:陸軍士官学校学生部附
  • 昭和12年7月:陸軍騎兵学校教官
  • 昭和12年11月:陸軍騎兵少佐
  • 昭和16年8月:陸軍中佐
  • 昭和16年11月:公主嶺陸軍戦車学校 教官
  • 昭和17年11月:四平陸軍戦車学校 教官(※ 公主嶺陸軍戦車学校が移転により改称)
  • 昭和19年7月15日:四平陸軍戦車学校 校長代理
  • 昭和19年12月:戦車第11聯隊長(昭和20年1月22日に布達式)
  • 昭和20年6月:陸軍大佐
  • 昭和20年8月18日:戦死・陸軍少将

逸話

編集
  • 四平の陸軍戦車学校の教え子に作家の司馬遼太郎がおり、司馬は池田から大いに薫陶を受け、後に「いまでも、私は、朝、ひげを剃りながら、自分が池田大佐ならどうするだろう」と自問し、「わからない。何十年たっても答えが出ない」と述べている[50]
  • 占守島に連隊長として赴任したとき、荷物は柳行李ひとつだったという。
  • 連隊長の職にあっても、入浴や下着の洗濯などの身の回りのことは、当番兵を使わずに自分で済ませた[51]。これに当番兵が恐縮すると「お前たちは私ではなく、国に仕えているのだ」と言った[51]。連隊の学徒出身者には「貴様たちは、得た知識を国のために活かすのが使命だ。自分たち軍人とは立場が違う」と語った[51]
  • 1945年(昭和20年)1月24日の布達式の際、吹雪の中で机の上に立ち挨拶を行ったという。
  • 占守島の戦いの終結後、四嶺山などで行われた遺体収容作業に参加した元戦車第11連隊の兵卒は、「幌筵島の柏原から応援に来た衛生兵が、戦死者と重傷者[注釈 18]を乗せたトラックを、まだ生きている者がいるのを承知の上でガソリンで焼き払い、『もう助からない。このまま生きて苦しめるよりも、本人のためなんです』[28]と言ったのを目撃した」という旨を戦後に証言している[28]
ただし、当該証言の出典を検討すると、「戦場整理は昭和20年9月上旬から何度かにわけて実施され」[28]と記されているにもかかわらず、「すると、道路脇に、日本兵の戦死者や重傷の兵士が横たわっていた」[28]「五、六人の歩兵が、日本兵の遺体や負傷兵をトラックの荷台に積みこんでいった」[28]などと戦闘終結直後の情景であるかのように記されている点に注意を要する。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 相原秀起 『一九四五 占守島の真実:少年戦車兵が見た最後の戦場』(Amazon Kindle版、 PHP研究所、2017年)では、「第11戦車連隊は、九七式中戦車改(新砲塔チハ、47㎜対戦車砲)20両、九七式中戦車(チハ、57㎜砲)19両、九五式軽戦車(37㎜砲)25両、計64両を装備していた」という旨を記載している[6][9]
  2. ^ ただし、潮田のこの主張では、ソ連軍がどのような対戦車装備を持っていたと日本軍将兵らが考えていたか、全く明確でない。この占守島の戦いで対戦車に猛威を発揮したソ連軍の武器は膝射式の対戦車ライフルである。これは第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線で対独戦用に初めて開発されたものである。ノモンハン事件でのソ連軍の主な対戦車の戦い方は、ピアノ線の低鉄条網で日本軍戦車の車輪を絡めて停止させ、動けなくなった所を野砲で破壊する、あるいは、動いている戦車であればより強力なソ連軍戦車で撃破するというものであった。
  3. ^ 戦いは、その後、戦車第11連隊は、四嶺山の戦闘でソ連軍歩兵部隊を四嶺山から追い出したが、その代償として中隊長以上の将校11名のうち10名(池田を含む)を失い、戦車30数両のうち27両を失った(→「#戦車第11連隊の損害」)。ソ連軍の対戦車兵器による損害であるが、このような兵器の存在まで池田が分かっていたかは、疑問である。
  4. ^ 戦車第11連隊は、第91師団長の命令(ソ連軍の上陸直後)により、歩兵第73旅団長の指揮下に入っていた[26]
  5. ^ a b 戦史叢書第44巻 『北東方面陸軍作戦<2>千島・樺太・北海道の防衛』は「池田聯隊長は『戦車第十一聯隊はこれより直ちに突撃を開始する。祖国の彌榮を祈る』と師団長に対し報告したのち先頭車上から日章旗を大きく振って突撃を命令した。時刻は四時ころであろう。」[7]と記している[7]。訣別電の文言・宛先・通信手段・発信時刻に異同が見られる。
  6. ^ 0650=午前6時50分。
  7. ^ 古今東西の陸戦において「背後を突かれること」は「包囲されること」の次に恐ろしいことであり、敗北に直結する。
  8. ^ 高射砲は極めて初速が大きいため、低い弾道を高速で飛翔する高射砲弾には、弾道付近の敵兵を「飛翔するエネルギーだけで圧殺する」威力があった[28]
  9. ^ a b 帝国陸軍において、連隊附佐官(中佐または少佐)は、連隊の次席指揮官であり、「副連隊長」と表現できる立場であった。
  10. ^ a b 各部将校(例:戦車第11連隊軍医長 木下不二夫 軍医少佐[21])は、階級を問わず指揮権を有さない。
  11. ^ a b 戦車第11連隊の指揮権を継承した伊藤大尉陸士55期)の氏名を、戦史叢書44巻『北東方面陸軍作戦<2>:千島・樺太・北海道の防衛』は「伊藤力」と表記しているが([7])、伊藤大尉と親しかった陸士55期同期生が昭和48年(1973年)に『偕行』(偕行社の機関誌)に連載した追悼文では、終始「伊藤力」と表記しており([34])、「伊藤力」が正しい表記と思われる。
  12. ^ 潮田健二(陸士55期、元・帝国陸軍戦車将校)は、戦後は国際自動車工業株式会社東京都港区海岸)専務取締役を務めた[38][39]
  13. ^ a b 『偕行』は、偕行社帝国陸軍将校陸上自衛隊幹部自衛官航空自衛隊幹部自衛官らの親睦組織)の機関誌(月刊)。
  14. ^ 各中隊の小隊長たる将校(例:第3中隊 小島中尉[21])については、管見の範囲では詳細が判明しない。
  15. ^ 出典([8])には言及がないが、第5中隊長 古沢中尉(甲種幹部候補生6期、戦死)は「特別志願将校たる陸軍現役兵科将校」であったと思われる(特別志願将校については「幹部候補生_(日本軍)#任官以後」を参照)
  16. ^ 整備中隊長 高石大尉(陸軍少尉候補者出身、陸軍現役兵科将校)の卒業期別は、出典([8])に記載されていない。当時40代後半の高石大尉(連隊長の池田〈44歳〉より年長)は、ノモンハン事件(昭和15年〈1940年〉)に従軍した歴戦の士であった[21]
  17. ^ 戦車第11連隊将兵慰霊碑(第7師団史料館 中庭)に刻まれている、池田が発した訣別電の文言は「戦車第十一聯隊将兵は/四嶺山の麓にあり士気/ますます壮健なり/五時五十分 池田聯隊は直ちに敵に突入する/祖国の弥栄を祈る」である[47]
  18. ^ 占守島の戦いが終結した時点で、日本軍の医薬品や衛生材料は不足しており、負傷者に対する満足な手当は出来なかった[28]

出典

編集
  1. ^ a b 慰霊碑を故郷・豊橋から北海道の陸自へ:「占守島の戦い」戦死の連隊長”. 中日新聞. 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  2. ^ a b 陸上自衛隊 第7師団(2023年9月7日)
  3. ^ 第11戦車隊長 2等陸佐 弓削甲司. “第11戦車隊公式サイト”. 陸上自衛隊 第11旅団 第11戦車隊. 2023年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  4. ^ 秦 2005, p. 15, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:池田末男
  5. ^ a b c d e 大野 2010, pp. 145–152, 第4章 第91師団:連隊長の交替
  6. ^ a b c 相原 2017, 位置No. 229-256、第1章 最前線:士魂部隊-戦車第十一連隊
  7. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書 1971, pp. 568–570, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:戦車第十一聯隊の反撃
  8. ^ a b c d e 潮田 1973d
  9. ^ 相原 2017, 位置No. 256-285、第1章 最前線:主力戦車-九七式中戦車と九五式軽戦車
  10. ^ 中山 2001, p. 28
  11. ^ a b c d e 潮田 1973c
  12. ^ 戦史叢書 1971, p. 558
  13. ^ a b c 戦史叢書 1971, pp. 561–567, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:3 まさに水際撃滅:國端崎付近の戦闘
  14. ^ 相原 2017, 第1章 最前線:水際作戦から面式防御作戦へ
  15. ^ 戦史叢書 1971, pp. 567–568, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:3 まさに水際撃滅:第九十一師団の反撃:第九十一師団の作戦指導
  16. ^ a b c d e 相原 2017, 位置No. 870-886、第2章 終戦三日後の激戦:池田連隊はこれより敵中に突入せんとす
  17. ^ a b c 潮田 1973b
  18. ^ a b c d e f g h i j k l 『昭和史の天皇』 7、読売新聞社、1969年7月10日、32,33-34,37-38,44,46-47頁。 
  19. ^ a b c d e f 大野 2010, pp. 220–229, 第6章 決戦占守島:敵はどこに
  20. ^ a b 大野 2010, pp. 31–47, 第1章 油槽船の怪:8月15日
  21. ^ a b c d e f g h 大野 2010, pp. 209–220, 第6章 決戦占守島:特攻を覚悟する
  22. ^ 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』勉誠出版、2020年4月2日、202頁。 
  23. ^ 「語り継ぐ戦争 2012夏 占守島の死闘」『朝日新聞』2012年8月13日、北海道版、朝刊、23面。
  24. ^ a b c 大野 2010, pp. 242–257, 第6章 決戦占守島:死に向かう指揮官たち
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 大野 2010, pp. 229–242, 第6章 決戦占守島:艦攻隊の特攻出撃
  26. ^ 戦史叢書 1971, p. 567-568, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:第九十一師団の反撃
  27. ^ a b 戦史叢書 1971, pp. 561–563, 第2編 樺太・千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:3 まさに水際撃滅:國端崎付近の戦闘
  28. ^ a b c d e f g 相原 2017, 第3章 停戦:生きて苦しめるより本人のためなんです
  29. ^ a b 戦史叢書 1971, pp. 181–182
  30. ^ 戦史叢書 1971, p. 582
  31. ^ 相原 2017, 第2章 終戦三日後の激戦:「白虎隊たらんとするものは手を上げよ」
  32. ^ 相原 2017, 位置No. 1017-1046、第2章 終戦三日後の激戦:池田連隊長の壮絶な戦死
  33. ^ 戦史叢書第044巻 北東方面陸軍作戦<2>千島・樺太・北海道の防衛”. 防衛省戦史研究室. p. 570. 2023年10月18日閲覧。
  34. ^ a b c d e f 潮田 1973a
  35. ^ 大野芳『8月17日、ソ連軍上陸す』新潮社、2010年、255-256頁。 
  36. ^ 大野 2010, p. 334
  37. ^ a b c d 大野 2010, pp. 332–337, 第8章 一犬虚に吠え、白熊貪食す:遺体が語ること
  38. ^ 「潮田保雄」『人事興信録 第23版 上』人事興信所、1966年、う61-う62頁。 
  39. ^ 「国際自動車工業(株)」『日本職員録 第14版 上』人事興信所、1972年、会社こ76頁。 
  40. ^ a b c d e f g 「花だより:陸士56期:追悼文集関係-1 元戦車第11聯隊/篠田民雄氏(陸士57期)より」『偕行』昭和43年11月号、偕行社、1968年、50頁。 
  41. ^ a b 相原 2017, 位置No. 2116-2132、第4章 抑留:守り抜かれた九十七名の遺骨
  42. ^ 『偕行』(昭和31年11月号)偕行会、1956年11月15日、20頁。 
  43. ^ 相原 2017, 位置No. 1597-1614、第3章 停戦:四嶺山での遺体回収
  44. ^ a b c d e 「戦後78年:『北海道を守った戦い 知ってほしい』:占守島の戦い慰霊碑 千歳の駐屯地へ」 『産経新聞』(東京本社)2023年8月18日付朝刊、12版、22面、社会面。
  45. ^ a b 占守島の戦禍伝える慰霊碑:豊橋から北海道へ移設”. 東愛知新聞 (2023年6月2日). 2023年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月22日閲覧。
  46. ^ a b c d e ソ連が北海道占領を断念した一因か、終戦3日後から「占守島の戦い」…遺族が慰霊碑寄贈”. 読売新聞 (2023年8月18日). 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  47. ^ a b 占守島の慰霊碑、北海道へ:遺族寄贈、陸自が一般公開”. 共同通信社 (2023年8月17日). 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  48. ^ a b c 占守島の激戦 千歳へ:慰霊碑、旧陸軍遺族が寄贈、陸自駐屯地に移設:写真や名刺300点も”. 北海道新聞 (2023年8月3日). 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  49. ^ a b c 占守島の戦い知って:東千歳駐屯地に慰霊碑移設”. 苫小牧民報 (2023年8月17日). 2023年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月19日閲覧。
  50. ^ 『風塵抄』(中央公論社)、村井重俊「週刊朝日」
  51. ^ a b c 早坂隆 (2015年11月25日). “1945年、占守島…日本を分断から救った男たち”. WEB歴史街道. PHP研究所. 2019年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月29日閲覧。

参考文献

編集
  • 相原秀起『一九四五 占守島の真実:少年戦車兵が見た最後の戦場』(Amazon Kindle版)PHP研究所、2017年。 
  • 潮田健二陸士55期、元・帝国陸軍戦車将校)「み霊よ安かれ 船水達夫君・伊藤力雄君のこと:戦車第11聯隊の最期(連載第1回)」『偕行』昭和48年3月号、偕行社、1973a、58-59頁。 
  • 潮田健二陸士55期、元・帝国陸軍戦車将校)「み霊よ安かれ 船水達夫君・伊藤力雄君のこと:戦車第11聯隊の最期(連載第2回)」『偕行』昭和48年4月号、偕行社、1973b、47頁。 
  • 潮田健二陸士55期、元・帝国陸軍戦車将校)「み霊よ安かれ 船水達夫君・伊藤力雄君のこと:戦車第11聯隊の最期(連載第3回)」『偕行』昭和48年5月号、偕行社、1973c、55頁。 
  • 潮田健二陸士55期、元・帝国陸軍戦車将校)「み霊よ安かれ 船水達夫君・伊藤力雄君のこと:戦車第11聯隊の最期(連載第4回)」『偕行』昭和48年6月号、偕行社、1973d、52-53頁。 
  • 大野芳『8月17日、ソ連軍上陸す』新潮社〈新潮文庫〉、2010年。ISBN 978-4-10-133221-5 
  • 戦史叢書『第44巻 北東方面陸軍作戦<2>:千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社、1971年。 
  • 中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。ISBN 4-12-203858-8 
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 
  • 東雲くによし『陸軍中将 樋口季一郎の決断』WAC、2024年。ISBN 978-4-89831-975-8