江崎 済(えさき わたる、弘化2年4月26日1845年5月31日) - 大正15年(1926年12月20日)は、久留米藩出身の明治期の漢学者。幼名は元次、成人して江崎済と改名した。

略歴・人物

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久留米藩の森山栄太郎の長男として生まれた[1]。1854年、数え年10歳で藩校明善堂(現・福岡県立明善高等学校)に入り教育を受ける。17歳の時に漢学者加藤米山の塾に入り、約5年間漢学を学ぶ。1869年に久留米を出て筑前の亀井塾へ、さらに東京へ出て安井息軒の塾に入る。

明治4年(1872年)の大楽事件(久留米藩難事件)の影響により矢部村(現・八女市矢部村)の桑取薮に身を隠す。明治6年(1873年)矢部小学校が開校、その学校の二階にて漢学の私塾「矢部塾」を開く。その後黒木に移し「黒木塾」を開く。

明治12年(1879年)、村長木下甚助の懇請により、北川内小学校3代目校長として上陽町北川内へ転居。先に開いていた黒木塾を北川内に移し「北汭義塾」(ほくぜいぎじゅく)と改名。16年間で86人の生徒が入塾する。明治28年(1895年)御原郡(現・小郡市)の松崎高等小学校長に任命され、北汭義塾は閉鎖。

明治39年(1906年)県立中学校明善校助教諭となり漢文科を担当。大正15年(1926年)12月20日明善中学校教諭の現職のまま没した。

脚注

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  1. ^ 『広報じょうよう』2006年8月号

参考文献

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  • 上陽町役場総務課(編)『広報じょうよう』2006年8月号
  • 矢部村『矢部村誌』ひらけゆくふるさと矢部 1992年3月 
  • 崎門学研究会、大アジア研究会編『維新と興亜』第4号、「川島澄之助の学問の師・古松簡二」、令和2年12月
  • 久留米碑誌刊行会編『久留米碑誌』昭和48年
  • 三松荘一著『福岡県先賢人名辞典』葦書房、昭和61年
  • 篠原正一著『久留米人物誌』久留米人物誌刊行会、昭和56年

関連項目

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  • 牛島謹爾
  • 大楽源太郎
  • 加藤茶山(久留米藩儒者)
  • 安井息軒
  • 日比翁助(三越百貨店創業者)
  • 仁田原重行(陸軍大将)
  • 鏡山修
  • 松木和蔵
  • 真木邦三郎(伯父は真木和泉守保臣)
  • 真木勤四郎(第24代久留米水天宮宮司)
  • 石橋忍月(文芸評論家、文芸評論家山本健吉の実父)

外部リンク

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