江口 冨士枝(えぐち ふじえ、1932年11月18日 - 2021年5月28日)は、日本卓球選手・指導者。選手時代は世界卓球選手権で全種目合わせて6回優勝し、1950年代の日本卓球界黄金期を支えた名選手[2]。1997年にはその功績をたたえられ世界卓球殿堂入りを果たした。現役引退後は大阪卓球協会の会長や、日本卓球協会のレディース委員会委員長を務めるなど精力的に卓球界を支えた。

江口 冨士枝
基本情報
よみがな えぐち ふじえ
ラテン文字 EGUCHI Fujie
生年月日 (1932-11-18) 1932年11月18日
没年月日 (2021-05-28) 2021年5月28日(88歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県の旗長崎県長崎市
死没地 兵庫県の旗兵庫県川西市
性別 女性
選手情報
最高世界ランク 1位
段級位 9段
利き腕
グリップ ペンホルダー
フォア面ラバー 1枚ラバー
戦型 前陣速攻型
ITTFサイト WTTプロフィール
経歴
学歴 大阪薬科大学
所属歴 東レ
代表 日本の旗 日本代表
役職日本卓球協会副会長[1]
世界卓球選手権戦歴
出場大会数 5
初-最終出場 1954 - 1959
国内戦歴
獲得メダル
日本の旗 日本
女子卓球
世界卓球選手権
1954 ウェンブリー シングルス
1954 ウェンブリー ダブルス
1954 ウェンブリー 混合ダブルス
1954 ウェンブリー 団体
1955 ユトレヒト ダブルス
1955 ユトレヒト 団体
1956 東京 シングルス
1956 東京 ダブルス
1956 東京 団体
1957 ストックホルム シングルス
1957 ストックホルム 混合ダブルス
1957 ストックホルム 団体
1959 ドルトムント シングルス
1959 ドルトムント ダブルス
1959 ドルトムント 混合ダブルス
1959 ドルトムント 団体
アジア競技大会
東京1958英語版 ダブルス
1958 東京 混合ダブルス
1958 東京 団体
1958 東京 シングルス
アジア卓球選手権
1953 東京 ダブルス
■テンプレート ■プロジェクト:卓球 ■選手一覧

経歴

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長崎県長崎市で、美容室を経営していた両親のもとに生まれる[3]。7歳の時に大阪へ移り、高校卒業後は父の方針により、難波の髙島屋大阪店にある実家が経営する美容室で働いていた。1952年大阪薬科大学(現:大阪医科薬科大学)に入学し[3]、冨士枝が2年の頃に行われた全日本卓球選手権女子シングルスで準優勝し、翌年の同選手権では決勝で田中良子を破り優勝を果たした。

その後、1954年に日本代表に初めて選出され、同年ウェンブリーで行われた世界選手権では初出場ながら女子シングルスで3位に入った。3年後にストックホルムで行われた同選手権では女子シングルス・混合ダブルス・女子団体の3種目で優勝を果たした。1959年ドルトムント大会を最後に、世界選手権から引退した。

選手引退後は大阪卓球協会会長、日本卓球協会副会長、同協会のレディース委員会委員長を務め、日本卓球界の発展に貢献した。2010年10月、ニッタク卓球教室大阪枚方校(コスパ御殿山内)のアドバイザーコーチ就任。

2021年5月28日、兵庫県川西市の病院で膵癌で死去[4]。88歳没。

主な戦績

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脚注

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  1. ^ 歴代会長・副会長・専務理事・事務局長日本卓球協会
  2. ^ 夢と感動と愛を与えた日本卓球界の偉人5人”. 【SPAIA】スパイア (2016年7月23日). 2020年11月14日閲覧。
  3. ^ a b 「レールを引かれた上を歩くほうが 幸せに見えるかもしれないけど、 本当は抑えつけられたほうが強くなる」江口冨士枝”. 卓球王国アーカイブ. 2021年7月7日閲覧。
  4. ^ 卓球元王者、江口冨士枝さん死去 50年代に活躍”. 東京新聞 (2021年6月18日). 2021年6月19日閲覧。

外部リンク

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