永田 太郎兵衛(ながた たろうべえ、? - 安政7年3月3日1860年3月24日〉)は、幕末彦根藩士。太郎兵衛は通称正備

安政7年3月3日1860年3月24日)に発生した桜田門外の変の際、永田は井伊直弼の籠脇警護をしていた。襲撃に対し、若手剣豪だった永田は二刀流で奮戦し、襲撃者に重傷を負わせるも、銃創が酷く討ち死にした。

桜田門外の変で永田が使用した愛刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。

息子は海軍大尉永田廉平、廉平の妻は鈴木敬子(鈴木貫太郎の姉)。廉平は黄海海戦で戦死したため[1]、敬子の末弟の茂が永田家の養子として家督を相続した。

永田家の墓は、茂の娘の輦止みやこの系統が相続し、管理している。

脚注

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  1. ^ 境内のご案内”. 滋賀縣護國神社. 2020年7月26日閲覧。