永田利則
永田 利則(ながた としのり、1961年10月9日[1] - )は、広島県広島市東区尾長出身の元プロ野球選手(内野手)。
広島県瀬戸内高等学校硬式野球部 監督 | |
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広島コーチ時代 2017/11/10 秋季キャンプ(天福球場) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県広島市東区 |
生年月日 | 1961年10月9日(63歳) |
身長 体重 |
171 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト2位 |
初出場 | 1981年6月3日 |
最終出場 | 1990年10月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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来歴・人物
編集広島商では1年生の時、エース住吉慶一(法大)を擁し、右翼手として1977年夏の甲子園に出場。3回戦に進むが豊見城高の下地勝治(広島)、石嶺和彦のバッテリーに抑えられ、延長10回の末に0-1で惜敗。3年生時の1979年は三塁手に回り、夏の甲子園に再度出場。2回戦(初戦)は同期の中島信男(広島銀行)が好投、秋田商の高山郁夫を打ち崩し3回戦に進むが、浪商の牛島和彦に抑えられ大敗を喫する[1]。
1980年、ドラフト2位で広島に入団[1]。広島入団当初は「三村(敏之)二世」と呼ばれ、かなりの期待を持たれていた。しかし当時の野手陣は層が厚く、二軍生活が長く続いた。
1987年シーズン途中、西山秀二(+金銭)との2対1の交換トレードで、森脇浩司と共に南海ホークスに移籍。
1988年にはウエスタン・リーグで打率.325を記録し首位打者を獲得。一軍でもシーズン終盤に二塁手、三塁手として9試合に先発出場を果たす。しかし同年12月にポーカー賭博により逮捕されて謹慎処分となる。翌1989年、30盗塁でウエスタン・リーグの盗塁王を獲得。一軍では7月に指名打者、三塁手として6試合に先発、1試合ながら一番打者としても起用される。
1990年には出場機会が減少、同年限りで現役引退。広島時代からスイッチヒッターに挑戦したり[1]、持ち味の足を生かす努力もしたが結果を残せなかった。
引退後は古巣・広島にスコアラー(1991年 - 1993年)として復帰。
1994年、二軍守備走塁コーチに就任。
2007年から一軍外野守備走塁コーチを務めた。
2010年は二軍野手総合コーチ。
2011年からは一軍守備走塁コーチ。
2014年は一軍打撃コーチ補佐。
2015年は一軍総合コーチ。
2016年からは二軍外野守備走塁コーチを務める。2019年10月28日、来季のコーチ契約を結ばない事が発表された。
2020年からは社会人野球のMSH医療専門学校硬式野球部監督を務める[2]。
2023年10月からは自身の父・徹登の出身校でもある、広島県瀬戸内高等学校硬式野球部監督に就任[3]。広島時代の同僚で共にMSH医療専門学校硬式野球部で指導に当たった長内孝も同校野球部コーチに就任[3]。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1981 | 広島 | 7 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1983 | 1 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1988 | 南海 ダイエー |
18 | 30 | 28 | 5 | 7 | 1 | 1 | 0 | 10 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 1 | .250 | .300 | .357 | .657 |
1989 | 15 | 31 | 28 | 3 | 6 | 0 | 1 | 0 | 8 | 5 | 1 | 4 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | .214 | .267 | .286 | .553 | |
1990 | 5 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
NPB:5年 | 46 | 71 | 66 | 8 | 13 | 1 | 2 | 0 | 18 | 5 | 2 | 5 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | 17 | 1 | .197 | .243 | .273 | .516 |
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
記録
編集- 初出場:1981年6月3日、対阪神タイガース7回戦(広島市民球場)、9回裏に三村敏之の代走として出場
- 初先発出場:1988年9月13日、対ロッテオリオンズ22回戦(川崎球場)、8番・三塁手として先発出場
- 初安打:1988年9月22日、対近鉄バファローズ24回戦(日生球場)、9回表に森脇浩司の代打として出場、佐々木修から単打
- 初打点:1989年6月27日、対オリックス・ブレーブス11回戦(平和台球場)、6回裏に伊藤寿文の代打として出場、関口朋幸から2点適時三塁打
背番号
編集- 32 (1980年 - 1987年途中)
- 51 (1987年途中 - 1990年)
- 85 (1994年 - 2019年)
脚注
編集- ^ a b c d 『'86プロ野球選手写真名鑑』、日刊スポーツ出版社、1986年4月、P20。
- ^ “前広島コーチの永田利則氏 MSH医療専門学校監督に就任/デイリースポーツ online”. デイリースポーツ online. 2019年12月30日閲覧。
- ^ a b “瀬戸内の監督に元広島の永田利則氏が就任 V戦士の長内孝氏もコーチに 10月から指導開始”. 日刊スポーツ. (2023年10月3日) 2024年4月4日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 永田利則 - NPB.jp 日本野球機構