永暦帝
永暦帝(えいれきてい、繁体字: 永曆帝、簡体字: 永历帝、拼音: )は、南明の第4代(最後)皇帝。諱は由榔(ゆうろう)。廟号は昭宗(しょうそう)。帝号は存在しないが、日本では在位中の元号永暦より一般的に永暦帝と称される。
永暦帝 朱由榔 | |
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南明 | |
第4代皇帝 | |
王朝 | 南明 |
在位期間 | 1646年12月24日 - 1662年6月1日 |
都城 | 肇慶 |
姓・諱 | 朱由榔 |
諡号 | 応天推道敏毅恭倹経文緯武体仁克孝匡皇帝(鄭経による) |
廟号 | 昭宗 |
生年 |
天啓3年10月9日 (1623年11月1日) |
没年 |
永暦16年4月15日 (1662年6月1日) |
父 | 朱常瀛 |
母 | 昭聖太后 |
后妃 | 孝剛匡皇后 |
陵墓 | 永暦陵 |
年号 | 永暦 : 1647年 - 1662年 |
嫡母(父の正妻)は王太后、母は馬太后、妻は王氏(王太后の一族)、子は朱慈爝、朱慈𤇅、朱慈炫(太子の朱慈煊)、朱慈𤇥、朱慈煒、朱慈熠、朱慈焯。
生涯
編集桂端王・朱常瀛(万暦帝の第7子)の第4子として生まれ、明朝最後の皇帝・崇禎帝の従弟に当たる。
崇禎年間に永明王に封ぜられた。1643年(崇禎16年)、明末の混乱に際し、父と共に広西へ避難、その直後父と兄である朱由𣜬が薨去したため桂王となった。1644年(崇禎17年)、李自成の北京入城により崇禎帝が自殺すると、唐王朱聿鍵(後の隆武帝)や福王朱由崧(後の弘光帝)と協力して明の遺臣による南明政権を樹立、隆武帝が清軍に捕らえられると肇慶(現在の広東省)に逃れて皇帝に即位し、永暦と改元した。
その後は李定国、鄭成功らの協力を得て、広東省から広西、貴州、雲南地区を勢力下置き、一時は清を圧倒する勢いだったが、内部の権力闘争で徐々に弱体化し、やがて清軍の攻勢を受け支配地域は縮小、1650年(永暦4年)に広西桂林が陥落すると華南各地を放浪、1655年(永暦9年)には雲南昆明、1659年(永暦13年)にはビルマ(現在のミャンマー)に逃れているが、この時永暦帝に従った家臣はわずか650人程度に過ぎなかったと言われるまで勢力が縮小している。ビルマにのがれた後も清朝に投降した呉三桂の攻撃を受け、清軍の勢威を恐れたビルマ王ピンダレによって1662年(永暦16年)に永暦帝は清軍に身柄が引き渡され、同年に一族とともに昆明(雲南省)で、縊り殺されたとも、火刑に処されたともいう。享年40。こうして、明の皇統は断絶した。
永暦帝はキリスト教に造詣が深く、ローマ教皇にも使節を派遣したとされるが、明末の衰退期の使節派遣への政治的意義は非常に限定的であった。
脚注
編集注釈
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