永峰弥吉
永峰 弥吉(彌吉、ながみね やきち、1840年〈天保11年11月〉 - 1894年〈明治27年〉1月12日[1])は、幕末の幕臣、明治期の内務官僚。官選県知事。旧姓・高橋、幼名・良三郎、号・舟所[2]。
経歴
編集駿河国駿府[3][4]で幕府代官属吏・高橋古太夫の第三子として生まれ、幕臣・永峰家の養子となる[2]。戊辰戦争で旧幕府軍とともに脱走し、箱館政権の会計奉行のもとで組頭を務め、兵糧・銃器の調達などに従事[2][3]。降伏後、謹慎を経て静岡藩に復籍。人見寧らと集学所の設立に尽力[2]。
廃藩置県後、静岡県に出仕し、権大属、二等属、一等属、少書記官、大書記官を歴任[3]。1885年、内務省に転じ内務少書記官に就任。以後、大阪府書記官、福島県書記官を歴任[2]。
1891年4月9日、第1次山縣内閣により宮崎県知事に登用された。第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行った[5]。1892年8月20日、佐賀県知事に転任。第5回県会議員選挙では選挙干渉を行わなかった。病のため在任中に死去した[3]。